Leeの『101』を通して考える、僕らのスタンダード – Daniel Wang –

by Nobuyuki Shigetake and Mastered編集部

新進気鋭なラグジュアリー・ストリートの波やインディペンデントブランド、そしてメディアに上がるスタイルサンプルの数々など、さまざまな価値観の混在するなかに身を置く僕らは、たまに何を基準に服を選べばいいか分からなくなることがある。それは服だけでなく、音楽や食べ物においても同様だ。
本特集では、Lee(リー)が開発したデニムの元祖モデル『101』を、スタンダードと所縁のある多様なミュージシャンに着こなしてもらうとともに、“スタンダード”について、彼らの記憶を辿りながら再考。
今回は、ディスコミュージックのDJとしてドイツ・ベルリンを拠点に活動し、その独特なパフォーマンスでフロアをハッピーな雰囲気に包み込むDaniel Wang(ダニエル・ワン)が登場。来たる5月18日(土)に開催される恒例のパーティー『DISCO! DISCO!! DISCO!!!』に出演するために来日した彼に、自身の生い立ちや、現在住んでいるベルリンのシーンについて話を聞くと、世界各地のスタンダードを体感するなかで築き上げられた、彼の音楽活動やライフスタイルにおけるスタンスが見えてきた。
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※本特集内に掲載されている商品価格は、すべて税抜価格となります。

Photo:Shota Kikuchi | Styling:Hisataka Takezaki | Hair&Make-up:Kohei Domoto | Model:Daniel Wang | Text:Yuzo Takeishi | Edit:Atsushi Hasebe | Special Thanks:PRIMITIVE INC.

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昔のハウスやディスコ音楽のエモーショナルな部分に惹かれたんだ。

Daniel Wangのプレイはどこかノスタルジックな雰囲気を漂わせながら、フロアをたくさんの笑顔で染め上げていく。それは、毎年開催される『DISCO! DISCO!! DISCO!!!』が”虹色のパーティー”と形容されていることからも明らかだ。そんな、多幸感に包まれるパーティーの雰囲気は彼自身のパーソナリティーともシンクロしているようで、実際、今回の撮影では終始笑顔を絶やさず、スタッフとともに現場を楽しむ姿が印象的だった。最高にハッピーな空間を作り出すDaniel WangというディスコDJについて知るべく、まずは彼の生い立ちから話を聞いていこう。

— 初めてDanielさんを知る人もいると思うので、まずはキャリアについて教えてください。

Daniel Wang(以下、Daniel):僕が生まれたのはアメリカ・カリフォルニア。両親は1950年代から1960年代、つまりベトナム戦争時代に中国から台湾、香港、そしてカリフォルニアに移住した移民なんだ。家族にはこういったアートの分野に関わっている人はいなかったけれど、僕は子どもの頃から歌うことや踊ることが好きだった。やがて、シカゴの大学で研究員だったときには、毎週末になると宿題をやらないでクラブで遊んでいたよ。シカゴはブルースが生まれた場所だし、ハウスミュージック発祥の地でもあるからね。その当時は音楽を仕事にするなんて考えてもいなかったけれど、自分の人生を考えたとき、やはり自分の夢を追ってニューヨークに引っ越して、DJか何かをしようと思ったんだ。

春夏の軽やかな印象のアイテムには、ワンウォッシュの『101Z』がよく映える。
AMERICAN RIDERS 101Z (LM5101-400) 12,000円(Lee Japan TEL:03-5604-8948)、balのシャツ 15,000円(BAL TEL:03-6452-3913)、HACKNEY CARRIERSのバングル 46,000円(JETTON SHOWROOM TEL:03-6804-1970)、EYEVAN 7285のサングラス 58,000円(EYEVAN 7285 TOKYO TEL:03-3409-7285)、Parabootのレザーシューズ 60,000円(Paraboot AOYAMA TEL:03-5766-6688)

— それは研究員のときですか?

Daniel:大学を出てからだね。1993年だったと思う。ニューヨークに引っ越してから、まず自分が好きなレコードを作ったDJやプロデューサーを訪ねた。「この音楽は僕でも作れるのか?」「どうやってDJの世界に入ったのか?」って。当時はインターネットがなかったし、しかもダンスミュージックはニューヨークにしかなかったから、絶対にこの街にいる必要があったんだ。それでもまだDJを仕事にできるとは思っていなくて、その頃は、クロサワ楽器のニューヨーク支店でシンセサイザーやギターを販売したり、修理したりしていたよ。すると、だんだんシンセサイザーの知識がついてきて「この知識があるのに、一生ここで店員でもないだろう」と思い始めて……。もう、その頃にはレコードも2〜3枚作っていたし、1997年には初めて東京に来て渋谷のLOOPで回したり、1998年にはロンドンに行くチャンスもあったりしたから。つまり、自分の人生を選択するタイミングだったんだよね。そうして、2000年に本格的にDJとしてのキャリアをスタートさせたんだ。

— 1997年に日本に来たとき、DJは仕事ではなかったのですか?

Daniel:仕事なんて思っていなかったよ。「ついに、日本に遊びに行ける!」と思いながらレコードを持っていった感じ(笑)。その頃はニューヨークでもたまにDJをしていたからね。でも、クラブシーンはそれほど大きくなかったし、僕が興味を持っていたのはディスコミュージックとか、もっとメロディーのある音楽だった。当時、Danny Krivit(ダニー・クリビット)とかFrancois K.(フランソワ・K)が、昔のハウスミュージックとかディスコミュージックだけのパーティーをときどき開いていて、それがいちばん楽しかったことを覚えているよ。アフリカン・アメリカンの友達と知り合って、ダンスの歴史や意味を勉強させてもらったのもこの頃。決して懐古趣味というわけではなくて、その時代の音楽の内容やエモーショナルな部分に惹かれていたんだと思うよ。

— ご自身のレーベルであるBalihuを立ち上げたのはいつですか?

Daniel:これも1993年。その年にFrankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)のリユニオンパーティーがあったんだけれど、それは本当に素晴らしい経験だったね。黒人も白人も関係なく、一緒になって踊っていたし、ミックスもスムーズだった。でも、何よりいちばん感動的だったのは、彼がかけていたソウルミュージックやディスコミュージックが、みんなで歌ったり踊ったりできるエモーショナルな音楽だったこと。そんな彼のプレイにインスパイアされて、1993年に最初のレコードを作ったんだ。きっと誰も知らないであろうさまざまなサンプルを、レゴのように組み立てていったことを覚えているよ。このレコードは、自分がこれだけの音楽の知識を持っていて、こんなムードのパーティーができるということをDJに知ってもらうためのステートメントみたいなものだったんだ。

— 現在はベルリンを拠点にしていますが、移り住んでからどれくらいになるのでしょうか?

Daniel:2003年にベルリンに引っ越したから16年だね。実はニューヨークの話と関係があって、移住する2年前に”9.11(アメリカ同時多発テロ)”が起こったんだ。今、ベルリンの有名なテクノクラブでBerghain(ベルグハイン)があるけれど、そこは当時Ostgut(オストグット)というクラブだった。僕はそこで2001年の9月9日にプレイしたんだけれど、翌日にニューヨークに帰る直前、ベルリンの友達が「アメリカは今、政府がよくないから、いずれ悪いことが起きるよ。それに、ダニエルは才能があるけれど、ニューヨークにいたのでは夢は実現できないかもしれないから、ベルリンに引っ越してはどうだい?」って助言してくれたんだ。予言みたいだよね。2001年、テロはたしかに怖かったけれど、その後のニューヨークはナイトクラブも保守的になったし、住んでいる人たちのプライオリティも変わってしまった。移住を考えたのは、それがきっかけだね。当時のベルリンは家賃も安かったし、ゲイの生活も、社会の雰囲気も自由だった。だから、楽器、本、レコード、すべてをまとめて引っ越したんだ。その頃はベルリンのクラブなんて10軒もない、小さなシーンだった。だから移住してすぐ、すべてのDJとも知り合えたしね。でも何より、もっとオープンに自分の可能性を試してみたかったんだよ。