※ミックス音源はこちら!(ストリーミングのみ)
2人とも音楽はすごい好きなんですけど、当初から音楽に引っ張られすぎないファッションを志していましたね。(EDA)
— EDAくん、KABAくんは夜遊びの現場で会うことが多い2人ですが、とはいえ、もともと、EDAくんはネリチャギやMaster Lowに参加してたバンドマンだし、KABAくんはK-BOMB、DABO、SUIKEN、DJ HAZIMEという面々に混じって、Channel 5というグループでラップをやってたゴリゴリのB-BOYじゃないですか。そういう2人がダンス・ミュージックにハマったきっかけって?
KABA:(前身の)balanceweardesign時代、それまでは2人とも完全に別々の音楽、僕はヒップホップ、エッくんはロックを聴きつつ、お互いの音楽もシェアするようになって。被ってたのは、ロックの要素もあったし、ヒップホップの要素もあったケミカル・ブラザーズとかプロペラヘッズとか。
EDA:4ヒーローとかLTJブケムみたいなドラムンベースとかね。
KABA:僕は、もともとラップをやってた頃からドープな感覚のものが好きだったから、ラップを止めた後もUSの最新のヒップホップを聴きつつ、ニンジャチューンからアブストラクトなものを聴くようになるんですけど、その流れもアンチコンあたりでストップして。これから何を聴こう?っていう時に、アパレル界にサマー・オブ・ラヴが訪れて。最初は静観してたんだけど、balの10周年記念ZINEの編集をやってもらったタカシと新宿リキッドルームや、当時盛り上がっていた国内のレイヴ・パーティとかで遊んでいたりして。
EDA:そういう環境のなかで"やっぱり、音楽が良くないと気持ち良く遊べないな"と思ってたりもして。
KABA:渋谷のismというクラブでENOさんがやっていたテクノ・パーティ《essencia》に行ったりして。その後、MAYURIさんを紹介してもらって、2000年に開催された第1回目の《METAMORPHOSE》では、オフィシャルのTシャツも作らせてもらったんです。
EDA:そうやって遊びつつ、《LifeForce》とか西麻布 YELLOWのフランソワ・ケヴォーキアンを知ることになって。
KABA:あの時代のYELLOWね!パンパンなフロアで2時くらいのピークタイムまではガンガンにテクノだったのに、急に掛かったア・トライブ・コールド・クエストに感動しちゃって。"ファッションの人達が面白いって言ってる音楽がある"ってことから入ったものの、自分のなかで消化出来てなかったものがそこで解消されて、"オッケー!全然間違ってないわ"って(笑)。そこからどんどんハマっていった感じですね。
EDA:自分の場合は、渋谷でBasic Channelという洋服屋をやってた時代のKeiくん経由でもらったDJハーヴィーのライヴ・ミックス音源。ニューワールドアクアリウムの『Trepassers』が入ってるあの音源は相当聴いたよね。それで2002年にKeiくんとTakashiくんが溜池山王のJUNO LOUNGEってクラブでやってた《Mist The Party》へ遊びに行ったんですけど、自分が本当の意味でダンス・ミュージックに開眼したのはその時期ですね。ダメ押しになったのは、YELLOWで初めてやったセオ・パリッシュ。その時に"DJに身を委ねられるってこういうことか!"って思いましたね。ダンス・ミュージックと出会う以前の自分は、ベースを弾いたりピアノを弾いたり、ライヴを基本として音楽に携わっていたし、もちろん聴くのも楽しいんだけど、音楽は演るものだと思ってましたから。しかも、演奏を通じて、音楽に身を委ねている時間なんて、30分とか1時間くらいだったし、音楽との付き合い方はクラブ・ミュージックのそれとは全く違ってたんですよ。でも、いま挙げたDJたちにその価値感を壊されて"聴くことって、こんなに楽しいんだ!"って思わされた。
— いいDJっていうのは、ただ曲をかけるだけじゃなく、プレイの流れ自体だったり、そこでプレイした曲を全く別モノにする魔法を持っていますもんね。
EDA:まさに、そのケミストリーを見たっていう。ハウスやテクノのロング・ミックスって、見方を変えたら即興的な作曲というか、長い長い1曲を作っていくような感じですもんね。それが分かってからは、ライヴハウスに行くのが極端に減って、クラブに行く機会が増えていった(笑)。そうやってクラブ・カルチャーの洗礼を受けたのは2000年くらいですね。
— 2人にとっては、恵比寿みるくも重要な遊びスポットだったんでしょ?
EDA:自分が行き始めたきっかけはハイスタですね。みるくが出来たばかりの頃、まだ、ロック・バーっていうコンセプトの時代。当時、金もなかったし、「店の裏からタダで入れるよ」ってことで、裏から入ったら客席にダイブして、そのまま酒飲んで帰る、みたいな(笑)。それが18~19歳の時ですね。あそこでライヴもやらせてもらったし、20歳すぎくらいには、ARATA(井浦新・俳優)とかKIRI(REVOLVER)、井出大介たちとパーティをやったり。その後、お店のディレクターだった(塩井)るりさんが、宇川(直宏)くん、MOODMAN、高橋透さんのパーティ《GODFATHER》だったり、よりオルタナティヴな方向に向かっていって。そのなかで僕は客として遊びに行くようになるんですけど、きっかけは寸とCRYSTAL(現TRAKS BOYS、(((さらうんど))))がやってた雑誌『MONSOON』のクルーですね。その流れでレッキンクルーのしゅんた、特攻(現LUVRAW & BTB)、K404(現TRAKS BOYS、(((さらうんど))))を紹介されたのが、ちょうどダンス・ミュージックにハマり出した頃かな。
— レッキンはヒップホップのオルナティヴな流れでしたよね。
KABA:レイヴで馬鹿騒ぎする楽しみとオールドスクールを強引に融合してましたからね。
EDA:アルファにザマギ(メンバーの5iveは現COS/MES、MCのひとり79も先日ソロアルバムをリリース)もそうだけど、レッキンなんて、どう考えてもウザいじゃないですか(笑)。でも、彼らしかり『MONSOON』しかり、前世代的なコンサバなものに対する中指の立て方が半端じゃなかったから、balanceweardesignをやってた自分達とは考え方が近いものがあった。
KABA:そう。レッキンに関しては同世代として姿勢に共感出来たんですよね。
— でも、当時のメインストリーム、例えば、ミッシー・エリオットなんかはポスト・レイヴのヒップホップだったわけだし、それが受け入れられていたということは、実は亜流なものではなかったんだけどね。
KABA:そうなんですよね。「ティンバランドもどうやらレイヴを通過しているらしい」とか、「P・ディディがイビザでハーヴィーのプレイにヤラれたらしい」とか、そういう話は耳にするようになったり。
EDA:だから、KRS・ワンがやろうとしていたヒップホップとは全然違う形で、ヒップホップがミュータント化してたんですよね。例えば、スウィズ・ビーツを聴いても、俺らの目線から見たら、"このトラックって、テクノじゃん"って感じだったし、2003~2004年あたりからヒップホップを聴いてるうちに"ん?"って思うような瞬間が増えて。
KABA:そうこうしてるうちにネプチューンズが出てきて、メッシュ・キャップに細身の古着のジーンズ、NIKEのダンクに、ネルシャツっていう、ファレルのスタイルには影響受けましたよね。
EDA:ファッション関係でヒップホップが好きな人達はみんな影響を受けてたし、ロックワナビーのヒップホップはその頃から始まって、カニエ・ウェストしかり、それが今のヒップホップということになっているじゃないですか。B-BOYの洋服がタイトになるなんて思ってなかったでしょ?
KABA:そうだね。思い返すと、ファレルが盛り上がってきた時、B-BOYのファッション自体は一番ダボダボな時期だったんですよね。B-BOYの3分の2が超ダボダボ、ファレルとかディップセットのジム・ジョーンズとか一部を含む3分の1が超タイトで、ちっちゃいTシャツを着て、ゴールド・チェーンじゃなく、クロムハーツとか付けてる、みたいな。だから、ヒップホップのなかでもファッションが分かれていた狭間の時期ですよね。
— 選択が問われる変わり目の時期って、音楽にもファッションにも必ずありますよね。
KABA:もちろん、多感な時期に聴いた90年代のヒップホップはもちろん最高だったし、今でも自分のなかにあるものなんですけど、一番新しい新譜も格好いいものは格好いい。僕のなかで、ヒップホップっていうのは、どんどん新しいことを取り入れていって、その最新のものを善しとする文化なんですよ。だから、FORCE OF NATUREにも共感したんですよね。
EDA:そう。あの人達がヒップホップを経由して、いち早くダンス・ミュージックを提案し始めたからね。四街道ネイチャーは認識していたけど、FORCE OF NATUREになってから、モロにテクノを掛けてたりして、びっくりしましたもん。あと、それをいったら、元イルドーザーの石黒(景太)くん、(阿部)周平くんもそうだよね。パンクだし、B-BOYだし、スケーターだし、あの人達は俺らにとってずっと眩しい存在。
— 下北沢のクラブ、ZOO、SLITS。それからスケートボード・ショップのViolent Grindの流れもあったり。
EDA:《さんぴんCAMP》と《LBまつり》の両方とも出演した四街道ネイチャーのクロスオーバー感覚とかね。
— そういうクロスオーバーな音楽の感覚は、2人のファッション遍歴とどう繋がってるんだろうね?
EDA:基本的に音楽と洋服が好きなことはずっと変わりないんですけど、僕とKABAが一番共感・共有出来たのは、特定のジャンルに付随する象徴的なスタイルに対してアンチであるということ。だから、ファッション的な観点から格好いいと思えるものをチョイスしながら、その時々で自分の好きな音楽を聴いてきたし、音楽のサイクルとファッションのサイクルがそれぞれあった。そういう意味で、KABAと出会った時、俺はUKロックがすごい好きだったけど、本来だったら、下北的なファッションであるはず。それなのに、そういうスタイルは高校時代にすでに通っていたんです。だから、その先のスタイルを探してアウトドア・ブランドを身につけていたら、KABAはパタゴニアのダスパーカーを着てて、"あ、こいつ知ってるな"って思った。俺はグラミチのパンツにメレル履いてマウンテンバイク乗ってて、KABAはヤマハのGEARに乗ってて、そういうファッションに対する感覚がいちいちしっくりきたんですよね。だから、2人とも音楽はすごい好きなんですけど、当初から音楽に引っ張られすぎないファッションを志していましたね。
KABA:90年代、高校生だった僕らには色々なジャンルの友達がいて、ヒップホップが好きなやつもいれば、メロコア好きなやつ、レゲエが好きなやつもいるミクチャーな感じで、みんな仲良かった。"この音楽だったらこのスタイル"っていう典型的な格好をする時もあれば、しない時もあるという付かず離れずなスタンスだったんですね。だから、今日はバンダナ巻いて、短パンにハイソックスっていうスラッシャーの格好。でも、次の日は全身古着、違う日はハイブランドなどを取り入れたモードっぽいスタイルとか。
— その時点ですでにそういうミクスチャー感覚があったと。
KABA:高校生の時、ミクスチャー的感覚の原体験ってことでいえば、やっぱり、スケートボードのビデオですね。どんなジャンルの音楽も詰まってて、僕の場合、ビートルズなんかはプランBのビデオでほぼ初めて聴いたし、スティーヴ・ミラー・バンドもソウルズ・オブ・ミスチーフもそうやって知ったんですよ。だから、"自由にやっていいんだ"っていうスケートボード・カルチャーのアティテュードには大いに影響受けてると思いますね。
EDA:そういう意味では、どう考えても、ビースティー・ボーイズの存在はデカいよね。スケボーやってる街の不良が超お洒落に音楽をやって、ヒップホップからもバンドからも煙たがられながら、日本であれだけ盛り上がったわけでしょ。
KABA:俺らの世代は『Check Your Head』なんだよね。そこから入って、その前の『Paul’s Boutique』と『Licensed To Ill』を聴きつつ、もちろんファッションにも影響を受けたしね。
— ロック、ヒップホップ、スケート・カルチャーを経由したミクスチャー、その先のダンス・ミュージック。そして、音楽といい距離感を保ったファッションのサイクルもあるなかで、2人はbalを運営して、音楽で遊んでたんですね。
EDA:(野村)訓一くんが辻堂でやってた海の家《sputnik》、第1回目の《RAW LIFE》に宇川くんがやってた渋谷の《Mixrooffice》……色んなところで遊ばせてもらったよね。
KABA:で、俺らが4つ打ちにハマってて、「いいねー」なんて言ってたら、R.M.N.のWakkunたちと知り合って、「川辺(ヒロシ)さんとパーティやるから遊びに来てよ」って。それで青山のMIXへ遊びに行ったら、やってたのは《SURRRRROUND》ってパーティだった。そこで川辺さんが4つ打ちをガンガン掛けてて、"いま、こんなことになってるんだ?"ってビックリしたり。
EDA:川辺さんには「EDA、お前、DJ出来るんだったら、俺のパーティでやってよ」って誘ってもらったりもしましたね。
KABA:俺のDJ原体験は、恵比寿のみるくなんですよね。それで思い出すのは、みるくの何周年かのパーティでWakkun達がサウンドシステムを入れてやっていたパーティかな。俺たちがDJをやらせてもらった後、レコードを片付けずにブースを出たことですっごく怒られたよね。
EDA:でも、いま考えると、それって、DJをやる時の基本的マナーじゃん。それが分かってなかったわけだから、これ、ダサい話だね。
KABA:(笑)そうだね。でも、そういう意味では、Wakkunには遊び方を教えてもらいましたね。それで思い出すのが、Wakkunの親友、SARCASTICのポール(・T)さんの案内で出張先のLAで遊んだこと。そこでまた強烈な洗礼を受けたんですよ。「明日は1日オフにして、朝から遊ぼうぜ」ってことで、朝10時に迎えに来てもらって、「サーフィン行くから一緒に行こう」ってことで海に行ったり。
EDA:その後、「ちょっと、このエリアはヤバいよ。2人ともルーズな格好だから、ギャングスタに間違われるよ」って脅されながら、コンプトンの真っ暗な倉庫で古着を見たり(笑)。ヴィーガン・ピザの店とか、ワインとビールと葉巻だけを売ってるリカーショップに連れて行ってもらったり。
KABA:そう。ライフスタイルがホント格好いいんだよね。そのあと、ポールさんがDJするサンディエゴのレストランに行って、さらにその後、知り合いがやってるっていうスクワット・パーティに連れて行ってもらったら、普通の民家でドンチャカやってて、"これ、大丈夫なのかな?"って(笑)。
EDA:アメリカで親が留守してるのを見計らって、「ハウス・パーティしよう」みたいな、俺らが映画を通じて知ってるあの世界がそこにはあった。
— そういう2人の遊び体験は、洋服のデザインやディレクションにどう反映されているんでしょうね?
KABA:そういう体験、その時に感じたことはもちろんグラフィックにも影響してるし。
EDA:ポールにLAで案内された遊び場は、アンチ・ファッション的なフィールドでもあったから、不良っていうキーワードとファッション、クールさのバランスを考えさせられた時期でもあったんですよね。例えば、ポール・Tは格好いいんだけど、それは彼のキャラクターあっての話というか、何でもないリーバイスのデニムのシルエットが格好いいのは、ポールさんが履いてるからだ、と。そう考えるようになったということは、つまり、ファッションの根幹とは違う部分に、俺達が価値観を持つようになったということ。だから、良くも悪くも無知なまま、初期衝動でやっていた時期から、それとは違う感覚に移ろいながら洋服を作り始めようになったんですね。
ただ、自然に芽生えたその方向性に対して、自分でも戸惑いはあったんです。というのも、KABAはポールさんのようにアメリカンでベーシックなものが好きだったのに対して、僕はその中でのモードっぽいものが好きだったから、"その混ぜ方をどうするか。そもそも洋服はデザインが先にあるから格好良くなるのか。それとも着る人間が格好良ければ、何でも格好良くなるのか。グラフィックのような味付けは必要かどうか。プレーンで格好いいものは既に格好いいものとして成立してるんじゃないか"って、かなり悩みましたね。
— それはいつ頃のこと?
EDA:2003年にbalanceweardesignからbalに改名した数年後だから、2004~2005年ですね。そこで考えたのは、ハイエンドなものを自分達のフィールドに落とし込むこと。例えば、グラフィックを排除したプレーンなネルシャツなんだけど、オリジナルのジャガード織りだったり、サテンのジャケットなんだけど、ヴィンテージのサテンを使って、オリジナルを忠実に再現しながらも、刺繍は同色にしてアノニマスな感じにしたり、そういうアイディアの試行錯誤を悩みながらやってたから、いま考えると、その時期は低迷期だったかもしれない。
— ポール周辺のLAシーンはエクストリームだから、当然、大きな価値観の揺らぎはあるでしょうね。
EDA:しかも、それが26~27歳の時に訪れたから、さすがに冷静にはなれなかったし、そのシフトチェンジに対して、2005年に当時の社長から「お互いの感覚をケア出来ないから、そろそろ独立してみたら」って話になった。そこから2年くらい考える時間があって、2007年に独立したんですよね。だから、ポールさん達と出会ったことで、彼らが考える本質の格好良さに触れたことが第2期の初期衝動だとすると、そこからデザインされた洋服へ立ち返っていくのが独立後の展開なんですよ。プレーンでフラットなものを作っていた時に、外資のファスト・ファッションが入ってきて、プレーンで平面構成的なデザインは出来てるけど、デザインの根幹にある何か格好いいものがそこには感じられず、ただ、安いだけ。そういう流れを目の当たりにして、表象的なデザインをなぞられると、こういう打撃を食らうんだとも思ったんです。だから、俺達でしかデザインできないものを作るべきだと思ったのが、2010年以降から現在までに至る第3フェーズに繋がってる。
— そして、2010年にbalは中目黒から五本木に移転して、JAZZY SPORT、toe山嵜くんの設計事務所Metronome Inc.なんかとオフィスをシェアするようになりましたけど、あれはどういう経緯だったんですか?
EDA:もともと、独立した時点で、バンド繋がりの知り合いだった山ちゃん、それからグラフィック・デザイナーのニイ(マコト)くんとの3社共同で事務所を借りていたんです。でも、中目黒もだいぶ変わって、街の雰囲気にも違和感があったから、"そろそろ、別のところに移ってもいいかな"と思ってて。その時にJAZZY SPORTが当時マネージメントをしていたCOMA-CHIのCDジャケットをデザインすることになって、社長のMASAYA(FANTASISTA)くんに出会った。彼らのことはもちろん知ってはいたものの、渋谷の店には行ったことなかったんです。でも、中目黒の事務所に来てくれた時に、俺のレコードバッグのレコードを見て、「なんだ、好きなもの一緒じゃん。お店へ遊びに来てよ」って話になって。それ以来、JAZZY SPORTのことを意識するようになって、俺らも彼らも事務所の移転を考えてたところに、今の物件の空きが出たんだよね。
KABA:しかも、その物件はかつて7STARS DESIGNや、かつてはNGAPも入ってたところで、昔からいい物件だというのは分かってたし、俺も近くに住んでいたということもあって。
EDA:それでMASAYAくんに電話して、内見したあと、がっつり話し合って「じゃあ、一緒に移転しよう」ってことになった。
KABA:ただ、俺はJAZZY SPORTと接点もなかったし、誰とも会ったことなかったから、「JAZZY SPORTと一緒に移ろうと思ってるんだけど」って聞かされた時は正直"大丈夫?"って思った。長い付き合いで、エッくんには石橋を叩いて渡る時と勢いのみで突っ走る時があることは分かってたから、"これはどっちのパターンかな?"って思ったりして(笑)。
EDA:それは恐いね(笑)。
KABA:だから、俺の中で移転は賭けだったよ。でも、自分達のショップも出したかったし、自分達もレコードが大好きだから、洋服屋とレコード屋が一緒になるのは、それまで自分達がやってきたを全肯定することだから超いいなって(笑)。それに昔、何もなかった中目黒にショップを出したのと同じように、何もない五本木にお店を出すアイディアも最高だと思った。
— イースト・ロンドンも、ニューヨークのウィリアムズバーグやブルックリンもそうやって発展したわけだし、ロンドンやニューヨークの優良インディー・レーベルも敢えてハズしたところにオフィスを構えていたりするから、balのその考え方も面白いな、と。
KABA:それから五本木に移った後、それまで四つ打ちが好きって言ってたところで、また新たに、去年あたりから日本語ラップが急に来たという。
EDA:5LACK(S.l.a.c.k.)とか、JAZZY SPORTがマネージメントしてるSICK TEAM、それからERAくんとかね。
KABA:5LACKがbalのことを好きだって言ってくれてるのは嬉しいよね。恐らく、何かしらを肌で感じてくれてるからだと思うんだけど、それが何なのかを定義できたら、すごく強いような気がする。それをどうやってやるかが今後の課題かもしれない。
EDA:スケシン(SKATE THING)さんとか宇川くんがそうであるように、提案だけじゃなく定義したいよね。30年、40年と長く続けていきたいし、その時々の世の中の状況を自分達なりに整理するのがデザインでもあるから。
KABA:今までも時代やその時の気分で変化してきたわけだしね。
EDA:この間、備前焼きの職人をやってる友達に900年前の備前焼を見せてもらって。その変遷に触れた時、本当に長くやっていく上でトランスフォームしながら、メンタリティは変えずにやることって格好いいなって思ったりして。ただ、その説得力をどう持たせるか。そのためにはこの先、音楽でいうところの、開かれたポップスに対するアティテュードだったり、ポップスって何なのかを今一度考えなきゃいけないのかもしれないね。
— そんなbalは今年で立ち上げから10周年を迎えたわけですが、オフィスをシェアするJAZZY SPORTも同じく10周年ということで、10月13日に代官山UNITで合同開催するパーティ『5HG ZOO』について一言お願いします。
EDA:そもそもbalだけで小さな箱で大好きなDJを招いてやろうと考えてたんだけど、たまたまJAZZY SPORTも10周年ということで、酒の席で意気投合して、「祭りじゃ~!」って感じで準備を進めました。コンセプトは2ブランドに縁のある国内のアーティストということだけ。お互いの友だちもかなり被っているし、これは面白いことになりそうだなということで、UNITさんにご協力いたきました。夏の野外フェスも落ち着いて一息つく頃なので、秋祭り的にわいわい集まってもらえたらいいなと思ってます。演者もお客も動物園並みに濃いめのキャラクターになりそうで(笑)、今から楽しみですね。
KABA:僕らでないとなかなか集まらないメンツなんじゃないかなという自負もありつつ(笑)。あと、各都市で東京からDJ呼んだり、DJをやったり、パーティーをオーガナイズしている、意識の近いディーラーさんに東京でプレイしてもらうという試みも面白いかなと思います。
— その10周年パーティで2人はホスト役に徹してDJをしないということで、今回、特別にDJミックスをお願いしましたが、メロウなテクノやディープなハウスを交えつつ、テンションをキープする100分間はかなりの力作ですね。
EDA:もともとディープハウスは原点的に大好きで、僕もKABAもヴァイナルは買い続けているんですけど、ポール・TのDJですごく特殊なテクノの提案を食らってから、そっちのヴァイナルも追うようになって。この手のテクノって、テクノの枠の中でもかなり重箱の隅にあるジャンルなので、果たしてこの辺の音が好きだからといって、テクノが好きだと言っていいのか分からなかったりもするんですけど、そういう特殊なモノだけに、聴く人によってハマる全くポイントも違ってくるんじゃないかな。あと、こういうテクノをUREI1620で聴くとコンプがかかってマイルドになるのが好きなので、今回もミキサーに使ってみました。
— バックトゥバックで録ったんですか?
EDA:まず、僕がベースとなるミックスを仮録りして、KABAがそれに合わせて選曲した感じです。まぁ、2人とも一日のほとんどをオフィスで過ごしているし、持ってるレコードも近いので、違和感なく選曲、ミックスができたと思います。ただし、バックトゥバックだと締め切りに間に合わなそうだったので(笑)、2人で選曲を決めた後、KABAが後ろでレコードを磨いて、僕がミックスするスタイル(笑)。
KABA:「一緒にミックスを」というのは、昔YELLOWのセオ・パリッシュで遊んだ帰りに、家でベロベロな状態のなか録って以来という、かなり久しぶりのことだったので、選曲はかなり悩みましたね。現場でのDJではサプライズ的に流れを変えたりするのが好みなんですけど、作業や移動中などスモールスピーカーやヘッドフォンなどで聞くことを意識して、スムーズな流れや、終盤に向けて徐々にエモーショナルにリフトアップしていくような選曲にしました。まぁ、ミックスしない分、僕はかなり楽でしたが、録音中は僕も緊張しながら後ろでレコード磨いてましたよ(笑)。
EDA:個人的にはピストに乗っている時の気持ちいい感じを思い出しながら、ミックスを作ることが多くて、そうなると、全体的にドライブ感のあるテクノミュージックになっちゃうんですけど、移動中に聴いてもらえたら調子いいかも。あとは僕らのエモーションが伝われば嬉しいです。
bal & JAZZY SPORT Presents『5HG ZOO』
2013.10.13 [ Sun ]
at 代官山 UNIT & SALOON & UNICE
OPEN 23:00 / CLOSE 6:00
http://baloriginal.com/5hg/
ADV. 3,000yen
DOOR 4,000yen
With Flyer 3,500yen
◆UNIT
DJ :
KAORU INOUE
HIROSHI KAWANABE (T.1.S.S/INK/GALARUDE)
SHUYA OKINO (KYOTO JAZZ MASSIVE)
Moodman
FORCE OF NATURE
DJ Mitsu the Beats
TRAKS BOYS
LIVE :
cro-magnon
VJ :
HEART BOMB + KANAMEDIA
◆SALOON
DJ :
TAKASHI(MIST THE PARTY)
WATARUde(R.M.N./COD SERVICE)
Out Of Control a.k.a Naoki Nishida(Jazzy Sport)
MONKEY TIMERS(DISKO KLUBB)
DIET(ROUTINE/DISCO UNION)
VERB(FUTURE TRIBE/VERB STORE)
UCHIDA(LOVE)
TK
0g (HINOTORI / EHCS)
TETSUO(FVK)
VJ :
toi whakairo
◆UNICE
DJ :
DJ USB Pionear (SeratoNTractor, inc)
1-DRINK
COMPUMA
breakthrough
PUNPEE
BudaMunk
16FLIP
grooveman Spot
Mista Donut
LIVE :
marter
ZEN-LA-ROCK
SOUND SYSTEM : DK SOUND
HOSTED by bal & Jazzy Sport