今は音楽もファッションも映画も、作っちゃいけないものだらけでしょ(笑)。
— 確実にファッションにもあるとは思いますけどね。ただ、日本の”ファッション批評家”とか”ファッションライター”と呼ばれる人たちにそれを期待するのは極めて難しいと思いますし、日本のファッション誌の消費者層を考えると、それを求めているユーザーもごく一部のように思います。あとは、思い入れがないものを批評するのってやっぱり難しいんじゃないですかね。
田中:いや、批評をするのに思い入れなんて必要ない。ファッションに関して言えば、対象はモノなわけだから誰でも触れられるし、誰でも見られるし、誰でも着られるんだから、それをそのまま、他の何かと比較して、その共通項と差異を提示するだけでいい。まあ、そんな風に思い入れ云々という話が出てしまうのも、元は言えば、僕ら、批評家が悪いんですけどね。モノを見る時は、角度を変えるだけでいろんな風に見える。例えば、一頭の象を見た時に前、後ろ、斜め、それぞれで全然見え方は違いますよね? 批評と言うのは、そのそれぞれの角度からの見え方について記述することです。あるいは、象とキリンを並べた時に、何がどう違うかをただ記述すればいい。そうすれば、一頭の象に対して、また違う見え方がしてくる。そういうものです。対象に思い入れがあろうとなかろうと、角度が違えば、見える景色も違うはず。それが何よりも重要で、象の鼻が長かったり、耳がデカいことに何か意味を見出そうとするのは批評ではない。そういう意味では、ポップ音楽の世界でも、もはや批評は絶滅寸前なんです。自分の何かしらの思い入れを語ることは行われているけど、それを俯瞰して、時代という軸で見るとか、同じ時代にある違うモノと比べて語るという行為は誰もやらなくなってきている。そもそもその必要性を消費者が感じなくなってきていて、誰もがテイストとフィーリングで良い悪いを決めることに終始している。
まあ、必要なことでもあるんだけど、「お前が好きなものを教えてくれ」ってことだけが求められてる。これはファッションだけの問題ではなく、凄まじく忌むべき状況だと思うんですよ。好き嫌い合戦になってくると、極論に言えば、最終的には戦争を起こすしかなくなる。だからこそ、批評というのは重要なんです。思い入れとか、好き嫌いを排除した場所から、さまざまな視点を提示するものとして。でも、実際、むしろ作り手というか、作家の側には、そうした批評的な視点というのは確固たるものとして存在してるんですよ。西村くんの全曲解説で僕はそれを実感したし、なるほど、やっぱり作り手においてもフィーリングとロジックは両立するんだなと感心しました。
西村:今回のコレクションには、もちろん僕が見た角度からの田中宗一郎の批評ってものも含まれているし、あまり言いたくないけれど、裏地ひとつとっても言わば批評なんです。例えば、吉田カバンさんとやっているシリーズで、初めて[PORTER]のネームタグを前面に付けたのもひとつの批評。本来、こういうのは他の人が言うべきなんじゃないかなとは思うけど。
田中:要するに、クリエイターは批評を待っているんですよ。僕はポップミュージックの世界で20年間、批評家をやっているけど、続ければ続けるほど、インタビューという形式があまりに退屈に思えてくるようになった。インタビュー自体は大好きなんですけどね。得意だし。ただインタビューをする時には必ず作家が考えてもいなかったような話をします。心がけているのは、実際にそれが事実かどうかは分からないけれど、『もしかして、そういうことってあったのかもしれない』と思わせる瞬間を作ること。そもそも作家に作品をどんな意図で作ったのかを語らせるのは無粋だし、退屈なんです。それよりも、作家自身が思ってもみなかったアングルを提示することの方がよっぽどエキサイティングじゃないですか。それに批評家がやることは正解を提示することではないから。もしかしたら荒唐無稽かもしれない視点を見せることで、そういう見方もあるんだなと思わせる。そもそも作家も正解を持っていないし、批評家は正解なんてどうでもいいと思ってるし、作品そのものにだって正解なんてない。でも、そうした批評によって、対象がざわめき出すし、輝き出す。そして、対象を見る人たちも沸き立つことに繋がっていく。そうしたクリエイションと批評と受け手が織りなすトライアングルを作ること。表現と批評は、ある時は手を携え、ある時は反目しながら、いろんなモノを変えうるものだと思うんです。
ある時代に、何かしら時代を反映してモノを作る人と、それを受け取る人の仲介になる人が、そのトライアングルの中で、時代なり、対象なりを理解し、考える。すごく当たり前のことなんだけど、表現と批評と時代にはそんな作用がある。でも、それが今は失われつつある。正直、この先どういう状況になるのかは分からない。でも、確実に”かつてはあった”。19世紀や20世紀にはあった。欧米にもあったし、この国にも確実にあった。僕はずっと音楽に取り憑かれてきたんですけど、ポップアート全般に興味があったし、批評にも取り憑かれたし、ファンダムーー受け手が作り上げたカルチャーそのものにも興味がありました。でも、今はそのトライアングルが失われている。それは音楽だけの話ではない。以前ならファッションと映画と音楽、小説なんかもそうですけど、あらゆる表現は互いに影響しあっていて、それぞれがそれぞれを互いに引用しあっていた。カルチャーって、そうやって勝手に出来上がるものじゃないですか。けど、今は各々が分断されていて、さらにそれがテイストで分けられている。これは実に退屈だなと思いますね。ファッションの現状に関しては、その辺りはどうなんですか?
— 今、田中さんがおっしゃったような話は洋服の作り手ともしますし、音楽の作り手ともよくします。ただ、その現状を自分たちで何とかしなきゃいけないと感じている人はそこまで多くないように思います。
田中:その原因は?
— 音楽にしても洋服にしても正直な話、経済的な問題は抱えていますよね。客観的に見ても19世紀、20世紀と比較すると、業界的に余裕がなくなっていることは明白だと思います。
田中:ただ、それも結局一番悪いのは批評家ですよね。面倒臭い批評家がいれば、作っちゃいけないものは作れなくなる。今は音楽もファッションも映画も、作っちゃいけないものだらけでしょ(笑)。しかも、もっとも作っちゃいけない類いのものがもっともポピュラリティーを持っていたりする。特に日本はね。洋服なんてその最たるものだと思いますよ。政治的な視点からしても。でも、元来作っちゃいけないものを、経済的な余裕のなさをエクスキューズにして許容してる状況がある。でも、本当はそれを許してはいけない。こんな風に経済的にもしんどい時だからこそ、批評が必要なんだと思います。