話題のニューカマー、Daichi Yamamotoが紡ぐ音楽世界

by Yu Onoda and Keita Miki

日本人の父とジャマイカ人の母のもと、京都で生まれ育った26歳のラッパー、ビートメイカーのDaichi Yamamoto。インタラクティブアートを学んでいたロンドン留学中にSoundcloud上で発表した”She feat. JJJ”をはじめ、STUTS、Kojoe、ジャズピアニストの桑原あい、アーロン・チョーライ、仙人掌やGAPPERらとのコラボレーションが耳の早いリスナーの間で話題になっていた彼のファーストアルバム『Andless』が遂にリリースされた。
ラップと歌をしなやかに織り交ぜながら、JJJ、VaVa、Kojoe、grooveman Spot、okadada、Aru-2ら、錚々たるプロデューサーが提供した先鋭的なビートを乗りこなす彼の音楽世界は、洗練されたタッチで軽々とジャンルを超え、自身の内面を旅するように巡る。その蒼く美しい言葉の軌跡が描き出すものとは果たして……!?

Photo:Shunsuke Shiga | Interview&Text:Yu Onoda | Edit:Keita Miki

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曲が出来ても空しさが残ったというか、何かが足りない感覚がずっとあったので、セルフ・セラピーじゃないですけど、湧き上がる感情と向き合うように曲を作る必要があったんです。

— Daichiくんがフィジカルで初めてリリースした昨年のEP”WINDOW”は、ジャズピアニストにしてビートメイカーの Aaron Choulai(アーロン・チューライ)と現行のトレンドに対するオルタナティブを提示したジョイント作品でした。そして、今回リリースした初のソロアルバム『Andless』は日本人のお父さんとジャマイカ人のお母さんのもと、京都で生まれ育ったDaichiくんの内面を掘り下げた作品ということもあり、まずはDaichiくんの生い立ちについて教えてください。

Daichi Yamamoto:今回の1曲目”Dress”には、僕の子供の頃の記録として父がカセットテープに残していた音声を使っているんですけど、生まれ育ったのは、常に音楽やラジオがかかっているような環境ですね。

— Daichiくんのお父さん、ニック山本さんは音楽関係者の間でよく知られていて。1986年に日本初のレゲエバー・Rub A Dub、1990年にCLUB METROをオープンした京都の音楽シーンのキーバーソンなんですよね。

Daichi Yamamoto:はい。そんなこともあって、父がジャマイカに行った時、現地のラジオを録音した音源を家でかけていたり、5歳の時に初めてクラブに連れて行かれたり(笑)、音楽に触れる機会は多かったんです。ただ、そういう環境があまりに当たり前だったので、自分から積極的に音楽を聴きたいと思うことは10代半ばまであまりありませんでした。

— では、自分から音楽を聴くようになったきっかけは?

Daichi Yamamoto:中学生の頃、兄や姉の影響もあって、アメリカのヒップホップを聴くようになったのが最初です。日本のヒップホップを聴き始めたのは高校生の時にMETROで観たShing02さんのライブがきっかけで、その周りの外人21瞑想(Meiso)のパーティに行ったりするようになりました。Shing02さんの音楽を聴くまで、ヒップホップにはギャングスタラップのイメージがあって、6歳から7歳にかけて、ジャマイカに住んでいたこともある自分にとって、そういう厳しい環境で歌われているギャングスタラップは理解出来たんですけど、日本は安定していて平和だと思い込んでいたので、そんな中で歌われるハードな曲にはピンと来なかったんです。でも、もっと日常的なことが歌われているShing02さんの音楽を通じて、自分が住んでいる日本の環境とヒップホップがようやく一致して、そこからどんどん掘り下げるようになりました。

— ラップしたり、ビートを作るようになったのは?

Daichi Yamamoto:たぶん、18歳の頃だと思うんですけど、(京都のヒップホップバンド)瘋癲のB-BNADJさんがお子さんと一緒によく家に遊びに来ていたんですね。

— B-BANDJさんが瘋癲以前にMCで参加していたMONDO GROSSOは、今でこそ大沢伸一さんのソロプロジェクトになっていますけど、もともと京都発のバンドでしたもんね。

Daichi Yamamoto:当時、僕の兄はDJをやっていて、同じようなことをやるのは癪やなって思っていたら、父やB-BANDJさんから「ラップやったらええやん」って、ずっと言われていて(笑)。その前にトラックを作ろうとしたんですけど、全然上手くいかなかったので、ネットから落としたトラックにラップを乗せたのが始まりだったと思います。

— その後、Daichiくんはロンドン芸術大学でインタラクティブアートを学ばれていますが、子供の頃から絵を描いたり、アートにも興味があった?

Daichi Yamamoto:そうですね。幼い頃から漫画が好きで、絵を描いたり、ストーリーを考えたりするのが好きだったので、中学生の頃からそっちの道に進もうと考えていて、自分で音楽を作るようになってからも自分のなかでは音楽よりアートの方が大きな割合を占めていました。そして、ロンドンに行ってから絵を書くよりもっと自由度の高いインタラクティブアートに興味を持つんですけど、それ以前はアートを志しつつ、具体的に何がやりたいのか、自分のなかでずっと抱えていたモヤモヤした気持ちがインタラクティブアートと出会ったことで一気に晴れたんですよ。

— しっくり来たのはインタラクティブアートが複合的な表現であるところ?

Daichi Yamamoto:そうなんです。デザインや映像の視覚的な要素や音楽の要素があり、カルチャーに根ざしたものでもあって、色んなスキルを持った人がコラボしながら作品を作ったりするんですけど、そういうインタラクティブアートの在り方が好きだし、音楽も好きな自分にぴったりだと思ったんです。

— 刺激的な音楽に溢れたロンドンの街から音楽的にはどんな影響を受けました?

Daichi Yamamoto:趣味でやってる人を含めて、至るところにミュージシャンがいて、音楽に触れあう時間は多かったというか、日本にいた時以上に音楽制作に没頭するようになりました。家の近くにジャズバーがいっぱいあって、独りで時間があったら、よく行ってましたし、クラスメイトにグライムシーンで活躍している子の友達がいて、一緒にライブを見に行ったり、クラブでもよく遊んでましたね。夜遊びだと、廃墟で頻繁にパーティを打っていた友達が、使われていない船でパーティを主催して、そこで自分もライブをやらせてもらったんですけど、対岸から花火を打ち上げたかと思ったら、それをめがけて川に飛び込んで溺れたり(笑)、映画みたいな無茶苦茶な世界だったというか、「ホントにこういうことってあるんだな」と思うような体験もしましたね。

— そして、DaichiくんがSoundCloudで作った曲をアップし始めたのはロンドンの大学在学中ですよね。

Daichi Yamamoto:そうですね。作った曲をアップしつつ、ロンドンでは、日本が恋しくなったというか、距離が離れたことで色々見えたというか、日本語のラップをよく聴いていて、OLIVE OILさん、KOJOEさん、5lackさん、JJJ、アーロン(・チューライ)の曲が全部好きだったので、SoundCloudにアップされていた音源を勝手にダウンロードして、そこに自分の声を乗せたものをダメもとで本人に送ってみたら、返事が返ってきたのが、OLIVEさん、JJJ、アーロンだったんです。