話題のニューカマー、Daichi Yamamotoが紡ぐ音楽世界

by Yu Onoda and Keita Miki

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— 大学卒業後に進むべき道はどう考えていたんでしょう?

Daichi Yamamoto:アート関係の仕事に就こうと就職活動をしていたんですけど、返事が返ってきたのは帰国後だったりして(笑)。同じタイミングでJazzy Sportのマサトさんから「よかったらアルバムを作らない?」っていう連絡があったので、じゃあ、日本に帰ったら音楽をやろうと決めました。

— ロンドンにそのまま残ろうとは思わなかった?

Daichi Yamamoto:今でもロンドンに戻りたいなとたまに考えたりするんですけど、ビザの関係で住むのはあと2年が限界ということもありましたし、長くいると小さなことが大事になってくるというか、向こうにいて一番しんどかったのは食事だったんですよ。1、2年はパスタを食べ続けても大丈夫だったんですけど、その後、納豆ご飯を食べたいなというモードになり、体調もどんどん落ちていったので、長期で住むことは考えられなかったです。帰国した時もすごい痩せていたらしくて、周りからすごい心配されましたし、日本食を無茶苦茶食べましたね(笑)。

— その一方で「和の心 But I’m black boy」とDaichiくんが歌っているように、居心地のいいはずの日本で時に居心地の悪い思いをする時もあったりする?

Daichi Yamamoto:ロンドンに行くまでは、日本での生活が自分にどう影響しているのか、よく分かっていなかったんですけど、ロンドンでは自分のなかですっきりした部分があったんです。でも、また日本に帰ってきたら、視線を感じることが多かったり、レストランに入ったら、英語のメニューを出されたり、ひとつひとつは小さなことで、差別と呼ぶほどの大袈裟なものではなかったりするし、いちいち気になるわけではないんですけど、そういう小さなことが蓄積されることによって、ストレスになったり、自分の行動に影響しているのかもしれないと考えるようになりました。こないだも電車に乗ってたら、近くの女の子たちが「見て見て、あの人、JAY-Zみたい」って、ひそひそ話してて(笑)、まぁ、そういう瞬間は笑って流せるんですけど、気分が落ちてたり、体調が悪かったりすると、ため息が出たりする。ロンドンにいた時にはそういう経験が全くなかったので、今振り返ると、向こうで生活していた時にはリラックスしていたんでしょうね。

— 本人に悪気がない無自覚な差別は、それはそれでたちが悪いというか、日本は日常における無自覚な差別はまだまだ根強いですよね。

Daichi Yamamoto:だから、日々蓄積するストレスをどこかでガス抜きしたり、自分のメンタルをポジティブな方向に持っていくように意識はしているんですけどね。

— 今回のアルバム『Andless』は、日本に戻ってからの日々と気持ちの葛藤が歌われていますが、昨年、Daichiくんが参加したジャズ・ピアニスト、桑原あいさんのアルバム『To The End Of This Wolrd』の”MAMA”ではDaichiくんのお母さんについて歌われていますよね。

Daichi Yamamoto:はい。自分の母についての曲は書いたことがなく、書こうとも思ったことがなかったんですけど、桑原さんから要望があったので、どうすれば、痒くならない曲になるんだろうと思ってトライしてみたんです。そして、出来上がったヴァースは、自分にとって普通のことを書いたつもりだったんですけど、周りの反応が面白くて、自分にとっての普通はみんなにとっての普通じゃないんだろうなと思ったんです。だから、自分のアルバムでは桑原さんにピアノを弾いてもらって、今度は父が母に出会うまでの話を説明じみた感じにならないように書いてみようかなって。

— 1980年代初期にRANKIN TAXIさんたちと一緒に初めてジャマイカに行き、他の方々が帰国するなか、Daichiくんのお母さんと出会ったお父さんは、その後しばらく、ジャマイカとNYを行き来する生活を送られていたんですよね。

Daichi Yamamoto:当時のジャマイカは貧しかったので、ニューヨークでバイトしたお金を貯めて、母にプレゼントするための服を買って、ジャマイカに持っていったそうなんですけど、母だけに買っていくと、同じ街の人たちが嫉妬して、それがトラブルの発端になるので、みんなの分を買っていって。そのなかに”Dress”で歌っている母のための赤いドレスがあった。いつだったか、父が誰かと「あいつはあのドレスを大切そうに持ってるからな」って話しているのを盗み聞きして(笑)、いい話だと思ったので、1曲目の”Dress”でそのことをリリックにしたんです。

— アルバムでは、そこから先、女の子と出会ったり別れたりしながら、自分探しの日々を描いています。

Daichi Yamamoto:そうですね。2年前に日本に帰ってきて、最初にアーロンとのEP”WINDOW”を作ったので、今回のアルバムではその後の1年半に起きたことや考えたことが作品になっています。自問自答している曲が多いと思うんですけど、イギリスにいた時、体調が優れない時期が長く続いて、パニック発作が起きたり、自分のことがよく分からなくなったというか、色んな感情が渦巻いていて。でも、それ以前の作品では自分のことをあまり書かなかったので、曲が出来ても空しさが残ったというか、何かが足りない感覚がずっとあったので、セルフ・セラピーじゃないですけど、湧き上がる感情と向き合うように曲を作る必要があったんです。

— それ以前は自分のことを歌ってこなかったDaichiくんが初のソロアルバムでは、全17曲のボリュームで延々と自問自答していて、それだけ渦巻いている感情があったんでしょうね。

Daichi Yamamoto:そうですね。自分にはネガティヴな考え方のルーティーンがあって、それを断ち切ろうと日々努めているんですけど、その過程で出来た曲が多かったですね。でも、散々自問自答した末に、考えても仕方がないという心境に至ったというか、最後の曲”Undress”では英語のリリックで、もう自分を探したりしないという終わり方でアルバムを締め括ったんです。

— 自作曲に加え、Aru-2、VaVa、grooveman Spot、okadada、JJJ、KOJOEら、多彩なプロデューサーが提供したトラックは、ブーンバップにトラップ、中村佳穂をフィーチャーしたハウストラックにKID FRESINOを迎えたUKガラージ、レゲエ、ジャズと、クロスオーバーな音楽性とトラックに合わせて、ラップのスタイルを自在に変化させる柔軟性がDaichiくんの大きな特徴ですよね。

Daichi Yamamoto:トラックは、アルバムのバランスやバリエーションを考えながら、自分がやりたいビートメイカーとマサトさんが推薦してくれたビートメイカーにお願いして、そのビートに対して、リリックを書くというやり方でレコーディングを進めていきました。自分の音楽性は、父とMETROの影響が大きくて、色んなパーティに遊びに行ってましたし、ハウスにハマっていた時期もあって、ラップを始めた最初の時期はハウスをはじめ、色んなタイプのトラックに言葉を乗せたりしていました。自分のなかでは全てをひとくくりにヒップホップとして捉えていたんですけど、人に聴かせると色んなリアクションがあって、初めて自分の音楽に幅があることに気づかされた感じなんです。