Photo:KOBA | Interview&Text : Yu Onoda | Edit:Keita Miki
※ミックス音源はこちら!(ストリーミングのみ)
— CE$くんは、世間的にはtofubeatsのマネージャーであり、ベースミュージックのエキスパートであるDJでもあり、そして、トリプル・ギター、ツイン・ベースといういびつな編成のハードコアバンド、she luv itのベーシストでもあって。その音楽性は謎めいていますが、6月にアルバム『she luv it』をリリースしたばかりのshe luv itはそもそもどういうバンドなんでしょうか。
CE$:初ライブをやったのは、2010年なんですけど、僕はその少し前から東心斎橋のバー、atmosphäreに通うようになり。そこには、オーナーのショウヘイくん(後のshe luv itのボーカル)や(Ooshima)Shigeruくん(Club STOMPの人気パーティ『2×4』を主宰するDJにして、後のshe luv itのギタリスト)、yoriくん(she luv itをはじめ、PAやレコーディングエンジニアとして様々な現場で活躍している大阪シーンのキーパーソン)だったり、色んな人たちが集まっていて。その多くはバンド経験者で、それぞれの事情でバンドカルチャーから離れていた人たちだったんですけど、atmosphäreというお店の自由な空気感とか遊び方を含め、こういう感じだったら、もう1回、バンドやってもいいのかもなって。それでノリでスタジオに入るようになったのが、she luv itの始まりです。
— she luv itの特殊なバンド編成は、そういう自由な場や遊び方ありきで始まったことが関係しているんですね。
CE$:そうです。僕も仕事の兼ね合いでライブに出られなかったり、メンバーも自営業の人が多かったりして、全員がなかなか揃わなかったりもするので、she luv itには他にもメンバーが数人いて。初期のメンバーもたまに参加してくれたりするので、メンバーが増え続けているんです。音楽的にも方向性ははっきり決まってなくて、ビートダウンと呼ばれる90年代に生まれたハードコアのスタイルを軸に、それをクラストコアの視点やNYハードコアの視点、あるいはダンスミュージックの視点であるとか、メンバーそれぞれの視点で解釈した曲作りをしていて。ライブに関しても今みたいにライブハウスでやることは想定してなくて、当初は「友達のイベントとかでやりたいよね」っていう感じだったんです。
— 音楽的にはクラストやノイズ、ドゥーム、スラッジ、ヒップホップやダンスミュージックだったり、様々な要素が混沌と渦巻いていて。同時期にアルバム『The World Has Left Us Behind』をリリースした東京のバンド、DREADEYEに通じる折衷性がありつつ、she luv itは、編成や音楽性を含め、自然発生的な成り立ちが、バンドとして理想的ですよね。
CE$:メンバーそれぞれ遊んでいるところはバラバラで、ヒップホップの現場に行く人もいれば、テクノのパーティに行く人もいて。ただ、何も言わずとも面白いパーティにはみんな揃ったりして、そういうつかず離れず、自由に遊んでいるところがいいんですよね。
— そのなかでも、自分はCE$くんの名前を2000年代後半くらいからDJとして見かけるようになったんですけど、それ以前の大阪はパーティ集団・FLOWER OF LIFEの影響力が絶大でしたよね。
CE$:もともと、僕は地元の三重、そして、大学進学で大阪に出てきた初期はハードコアバンドで活動していて。バンドを辞めてから、Autechre(オウテカ)とかSquarepusher(スクエアプッシャー)を見に行くようになり。初めて、ダンスミュージックに辿り着いたのは、ShigeruくんがKihira Naokiさんと一緒にやってたパーティ『Social Infection』でしたし、FLOWER OF LIFEは完全に上の世代の人たちのパーティという感じ。一回も遊びに行ったことがなくて、通っていたのはFLOWER OF LIFEのDJのカマちゃん(DNT)、CMTさんが新たに始めたパーティ『POWWOW』ですね。
— FLOWER OF LIFEのサイケデリックなディスコやディープハウスと『POWWOW』のベルリン・サウンドに代表される硬質なテクノでは、音の指向性がまったく違いますもんね。
CE$:そう。『POWWOW』の初期は、火事で一度閉めて、今はライブハウスとしてやってるアメリカ村のBIG STEP前の箱・Clapperでやってたんですけど、そこは出音がすごい良かったし、ゲストにKEIHINくんやTUTTLEさん(現Marginal Records)が出たりしてて、よく分からないなりに、「ダンスミュージックはこういう感じで聴くんや」って思いながら遊んでいたんです。
— ダンスミュージックに深くコミットするようになったのは、TUTTLEさんが店長を務めていた今はなきレコードショップ、CISCO大阪店に勤務するようになってから?
CE$:そうですね。23歳で大学を卒業して、一般企業に就職したんですけど、数ヶ月ですぐ辞めて、その年の秋からCISCOで働かせてもらうようになり。その後、CISCOが倒産するまで、働いていたのは2年半くらいだったんですけど、そこでの経験は今の自分を考えると大きかったですね。東京のCISCOはジャンルで店舗が分かれていたんですけど、大阪は総合店だったので、レゲエもヒップホップもテクノもハウスも全て扱っていて、色んなジャンルのお客さんも来ていましたし、営業時間が終わってから、先輩にレコードを教えてもらって。それによって、色んなジャンルの楽しみ方が分かるようになりましたし、今もクラブで一緒に会ったり、遊んだりしているのは、その時に知り合った人が多かったりするんです。
— そこで色んな音楽を吸収しながら、CE$くんが入れ込んだのはダブステップだったと。
CE$:当時はダブステップの黎明期で、日本にレコードが入ってくるようになってから1年後くらいのタイミングだったんですけど、毎週毎週、入荷するレコードが違うスタイルだったりするくらい進化が目覚ましくて。その進化を追っていくのが面白かったですし、自分がDJを始めたのもダブステップがきっかけなんですよ。『DUBSTEP RUDE』というパーティもはじめて、それ以外にも色んなパーティに出させてもらってましたし、給料の半分以上レコードにつぎ込んでましたね。
— 取り置き、社販、自分のためだけにレコードをオーダーしたり、ショップ店員の蟻地獄ですね。
CE$:いい経験にはなりましたけど、生活が困窮して、かなり追い詰められましたね(笑)。でも、それくらい刺激的だったというか、他のジャンルの人もダブステップに興味津々でした。当時はClub SAOMAIでパーティをやってたブレイクコアの人たちと一緒になることが多くて、パーティ『Back To Chill』に象徴される東京のダブステップがスタイリッシュに映っていたのに対して、大阪のダブステップは過激な音楽の一種という感じで、アーメンブレイクをプレイしたDJの次がダブステップをブンブンいわせていたり、色んな音楽を繋ぐハブとして機能していた音楽だったので、そういう音楽の広がりが楽しかったんです。
— 昔も今も、音楽人口が多い東京は1つのジャンルでパーティが成り立つのに対して、それ以外の街のパーティは色んなジャンルがクロスオーバーするのが当たり前というか。その独特な混ざり方がその街やパーティならではの個性ですし、大阪におけるダブステップも折衷的なものだったんですね。
CE$:大阪は混ざらざるを得なかったというか、当時はプレイヤーの絶対数が少なかったので、毎週末、色んな現場に遊びに行ったり、DJしたり、その頃の刺激的な体験が自分が楽しむ音楽の幅を広げてくれたんです。
— さらに言えば、黎明期のダブステップは、その後、色んな方向に枝分かれして進化、発展していきましたからね。
CE$:その頃のいわゆるクラシックと呼ばれるレコードはもちろん、その前の時代のジャングルやハードコア・ブレイクビーツ、レイヴもののレコードは今も自分のレコード棚にストックされていますし、今回、制作したDJミックスでも自分が影響を受けたレコードをあれこれ並べてみて、改めて、自分はUKの音楽の折衷性が好きなんだなと再確認させられましたね。
— そして、2007年にCISCOが倒産、閉店した翌年からCE$くんはソニーミュージック・エンターテインメントに転職。新人開発の仕事に携わっていたということですが、扱う音楽がアンダーグラウンドなクラブミュージックからメジャーの音楽へと変わったわけですよね?
CE$:ソニーミュージックの面接は100人くらい受けたらしいんですけど、採用の裏テーマはクラブミュージックにある程度精通している人間だったらしく、そんな事情もあって採用されたんですけど、毎日、ライブハウスを回って、ロックバンドのライブを観るようになって、最初の頃はその極端な振れ幅についていくのが結構キツかったです。でも、そこからtofubeatsやMaltine Recordsのことを知り、彼らのイベントをやったり、CDを作ったり、試行錯誤しながら、無理矢理自分の仕事を作っていました。
— R-指定が以前やってたユニット、コッペパンとか、当時、神戸の中学生だったKiano JonesもCE$くんが関わっていたとか。
CE$:コッペパンは横浜アリーナのイベントに出てもらったり、Kiano Jonesは東京FMの番組『SCHOOL OF LOCK!』のオーディションを大阪でやった時、ライブハウスの入り口でぼーっとしてたら、A$AP Rockyみたいな格好した男の子が入ってきて。それがKianoだったんですけど、「今日何かやってるんですか?」って話しかけてきたので、「君はお洒落な格好してるけど、何かしてる人なの?」って、逆に質問して。「いや、何もやってないです」って言うから、「興味があればラップやった方がいいんじゃない?」って。そうしたら、1週間後にデモを送ってきてくれて、そこから半年くらいは一緒に仕事をしたのかな。自分はそのタイミングでソニーを辞めたので、彼のことは先輩に託したんですけど、そうしたら、KID FRESINOがプロデュースした”HEAT”のミュージックビデオが出て、Fla$hBackSと遊んでることを知ったという。そうやって、会社のお金で、自分が理解出来る音楽だったり、多少なりともお手伝い出来そうな人を探していたんです。
— tofubeatsくんとの出会いは?
CE$:ソニーに入社した2008年の夏とか秋とか。そこから長かったですよ。その後、5年間、ひたすらtofuの音楽をあちこちにプレゼンしつつ、何にも実らなかったので(笑)。
tofubeats:僕はコッペパンばりに、横浜アリーナに2回も出演したのに!(笑)
— はははは。ただ、tofuくんとの出会いがあったり、she luv itを結成したり、CE$くんを取り巻く状況は混沌としつつも、音楽的には充実していたんじゃないですか?
CE$:無茶苦茶ごちゃごちゃしていたんですけど(笑)、僕自身が音楽を作る人間ではなかったというか、昔は作ろうとした時期もあったんですけど、ホントにセンスがなくて。それは早い段階から分かっていたので、それなら音楽的に面白い人たちを繋ぐハブの役割を担おうと。だから、わざわざごちゃごちゃしているところに首を突っ込んでいたところがあったというか、Maltine Recordsのような怖いオタクたちのなかに共通言語もない自分が出かけていきましたし、彼らは彼らで全く言うことを聞かなかったですからね(笑)。
— ハブの役割を考えるうえでは、例えば、atmosphäreのような”場所”も大切ですよね。
CE$:atmosphäreはclub SAOMAIで『line in da utopia』というイベントをずっとやっていて、STRUGGLE FOR PRIDE、DREADEYE、PAYBACK BOYSのようなハードコア、MEDULLA、ROCKASENのようなヒップホップ、GUILTY C.やRYO MURAKAMIのようなノイズ、テクノとか、そういうカッコいい人たちが集まっていて。2フロアある片方はハーシュノイズのライブ、もう一つのフロアはROCKASENがライブをやっていたり、自分のなかでは同居しえない音楽が一緒になっていて、なおかつ、そのオーガナイザーのショウヘイくんがクラストのアナーコ的な考え方だったので、「これは一体!?」と思って、すごい惹かれたんですよ。
— そして、atmosphäreと並ぶ大阪のハブ・スポットである心斎橋のレコードショップ、EBBTIDE Recordsのオーナー・MICHIOSHKAくんとの出会いは?
CE$:僕がCISCOで働いていた時、MICHIOSHKAはKING KONGっていうレコードショップにいたんですけど、当時、僕は休憩時間に他の店でレコードを掘っていて、KING KONGでanticon.とかWORDSOUNDのようなエレクトロニカ・ヒップホップのレコードを買っていたら、MICHIOSHKAが話しかけてくれて、「君これ好きそうやから」って、フライヤーを渡してくれて。そこから話すようになったんですけど、MICHIOSHKAもatmosphäreの常連客であり、彼がBushmindも在籍するクルー・seminishukeiに加入していたので、「東京にそういう人たちがいて~」という話からKING KONGで売っていた彼らのミックスCDを聞かせてもらったり、実際に彼らを紹介してもらったり。それからPAYBACK BOYS/WDsoundsのマーシーくん(Lil’ Mercy)を紹介してもらったり、MICHIOSHKAには色んなことを教えてもらいました。
— そうやって、CE$くんのなかで大阪と東京のオルナティヴなシーンが繋がっていった、と。
CE$:大阪は大阪で良いところはいっぱいあるんですけど、無節操なところもあるのに対して、東京の先輩/友人達はとても洒脱な感じが格好良くて。2008年に僕がグライムのミックスCD(『STEAL DA CITY』)を出したのも僕が憧れていたそういう人たちがミックスCDをたくさん出していたからだし、みんながミックスCDを置いてもらっていた(東京・下高井戸のレコードショップ)TRASMUNDOに出かけていって、自分のCD-Rも置いてもらったんですよ。
— 自分がCE$くんのミックスCDを買ったのもTRASMUNDOですからね。あのお店も東京のハブですよね。
CE$:TRASMUNDOに置いたことで、僕が好きで聴いていた人たちが買ってくれたり、僕自身、ミックスCDをある意味でコミニュケーション・ツールとしても捉えるようになって。9月11日(水)に名古屋のRC Slumのオーナー、ソウタ(ATOSONE)がやっているミックスCDシリーズ、Royalty ClubからミックスCD『When it’s time, it’s time』を出すんですけど、そういうコミュニケーションはいまだに続いています。
— 思わず話を脱線させてしまったので、tofuくんとの出会いに話を戻すと、自分がtofuくんのことを知ったのは、DE DE MOUSEくんなんですよ。神戸の高校生で面白い子がいる、と。
tofubeats:ほぼ素人時代に、僕とimoutoid、今は音楽ライターをやってるimdkmで、DE DEさんのイベントに出させてもらったんですけど、imdkmがRAW LIFEのスタッフをやっていたこともあって、その時の繋がりでDE DEさんと知り合ったんですよ。
CE$:tofuはtofuでDE DEさんと親交があったり、新世界ブリッジで遊んでいたり、僕とは違うラインでオルタナティブな音楽に触れていたんですよね。
tofubeats:SPACE SHOWER TVの『DAX』で放送したRAW LIFEの映像を見たり、雑誌『BLAST』を読んで、ライターの磯部さんが紹介していたSTRUGGLE FOR PRIDEの記事を読んだり。
CE$:オルタナティブな音楽に関して、僕が知らないことをtofuが知っていたり、tofuが知らないことを僕が知っていたり。そういう感じで仲良くなっていったんですよね。
tofubeats:クラブの客は8年で入れ替わるって、よく言いますけど、僕らはちょうど8歳違いなので、ちょうど1世代違うんですけどね。
CE$:でも、当時、アーティストは誰が好きなのかという話になった時、tofuはCherryboy Function、寺田創一、テイ・トウワの名前を挙げていたんですけど、自分は全く通ってなかったんです。今考えると、音楽に携わる者として失礼なくらい不勉強だったんですけど、tofuはBOOKOFFで掘っていたのに対して、その頃の自分は過去の日本のアーカイブを掘り返すことにあまり興味がなかったので、若いのに熱心だなって、新鮮に感じたんです。
tofubeats:はははは。ただ単に金が無かったからそうしていただけ。普通の話ですよ。
CE$:でも、それゆえにクラブで遊んでいる人たちとは別ルートのミュージックドープを仕入れてるなって思っていましたね。
— そういう世代の違いもありつつ、アンダーグラウンドなアーティストが2人の接点になっていたと。
CE$:そうなんですよ。atmosphäreやshe luv it、東京、名古屋の友達とか、自分の周りには色んな人がいるんですけど、みんな、音楽が接点で知り合っているというか、それ以外の共通点はほぼなかったりするんです。そういう意味でtofuであろうが、RC Slumであろうが自分のなかでは等しく友人なんですよ。
— かたや、tofuくんもパブリックイメージとしてはネット世代の音楽ギークであったり、最近だと”LONELY NIGHTS”の印象が強いのかもしれませんけど、実はSTRUGGLE FOR PRIDEと繋がっていたり、色んな側面があるわけじゃないですか。
tofubeats:自分が音楽を始めた最初期はゼロ世代が盛り上がっていた時代だったり、杉生さん(CE$の本名)と同時期に東京のハードコアの人に色々教えてもらったり、音楽として興味があったというか、普通に色々聴いていましたからね。
CE$:自分も世代が違ったり、一見、繋がりがなさそうな人とも音楽を接点に繋がれるからこそ、tofuのような若い世代からドメスティックな音楽を掘る楽しさを、逆にETERNAL STRIFEのお2人をはじめ、年上の先輩たちからソウルミュージックやルーツミュージックの格好良さを教えてもらったり、アーティストに付随する裏話を交えた音楽の奥深さを教えてもらったり。そういう人たちに出会えたのは本当に幸運なことだと思いますね。
— そして、関西はtofuくんしかり、seihoくん、okadadaくんしかり、CE$くんの下の世代は抜きに出たトラックメイカーの宝庫でもありますよね。
CE$:club SAOMAIで働いていたLOSHIというスタッフがCLUB NUOOHっていうクラブを新たに始めたんですけど、彼はSAOMAIで働く前にclub STOMPで働いていたこともあって、STOMPでパーティをする時にことあるごとに当時まだ大阪在住だったokadadaをDJで使っていたんですよ。かたや、CLUB NUOOHではseihoが『BRING YOUR MUSIC』っていうパーティを始めて。それは自作のデモを持ってきたら、タダで入場できて、イベントが終わった後にそのデモをみんなで聴くっていう形態で、そのパーティにすごい人が入っていたので、仕事に関係なく遊びに行ってたんです。
— その『BRING YOUR MUSIC』は新世代トラックメイカーの登竜門だったロンドンのクラブ、Plastic Peopleのパーティ『CDR』に近いコンセプトですね。
CE$:僕らの世代はDJがメインだったし、トラックメイカーというとヒップホップ以外ではイメージがなかったし、発表する場もなかったんですけど、seihoのパーティでは大阪のトラックメイカー人口の高さを目の当たりにして。そうやって彼が矢面に立って人を集めたり、レーベルをやったりするのは大阪のエレクトロニックミュージックシーンの新しい動きでしたし、同時期にokadadaがUstreamのDJ配信でブレイクするという事件が起こったり。当時、tofuはまだ大学生だったんですけど、有名なアーティストのリミックスを担当させてもらうようにはなっていて。
tofubeats:そういう意味でその2人は同世代ではあるんですけど、okadaさんは僕より4つ年上だったりするし、MaltineもTomadさん、ワイパさん(DJ WILDPARTY)は年上で、その末っ子的存在にあたるのが僕とimoutoidなんですよ。
CE$:さらにその下の世代に当たるのが、パソコン音楽クラブやsekitovaだったり、別のラインだとbanvoxだったりとか。
— CE$くんの個人史を通じて紐解くFLOWER OF LIFE以降の大阪の流れ、それはあくまで一部ではありますけど、こうして時間軸で語ってもらうと非常に興味深いものがありますね。
CE$:今の大阪は、STOMPもCIRCUSもすごくいい箱なんですけど、キャパシティ的にSTOMPは100人入ったらパンパンなので、個人的にはもう1つくらい、オルタナティブな実験が出来る場所があってもいいのかなって。だから、LOSHIには2020年のオリンピックの年に新しい箱をやって欲しいと思っているんですけどね(笑)。
— オルタナティブな実験といえば、CE$くんが教えてくれた2010年にclub SAOMAIの閉店タイミングでやったパーティのメンツが……あれはとんでもない感じでしたね。
CE$:バーフロアが、tofuにMaltineのtomad、okadaと京都でVINYL7っていうレコード屋をやってるMatsumoto Hisataakaa、EVISBEATSと一緒にやってるPUNCH & MIGHTYのMIGHTY MARS。その横の閉ざされたフロアがshe luv itの初ライブにDJ MARTAがやってた京都のハードコアバンドのNORDE、orhythmo名義でやってたショウヘイくんのドローン。DJがnaminohana recordsのINBEくん、Shigeruくん、DNTにMICHIOSHKA、僕。PAがyoriくん、VJがFlower Of Life/BetalandのHiraLionっていうありえへんラインナップだったんですよ。
— Flower Of Life以降の大阪の流れがその一晩に濃縮されていて、いい意味で具合が悪くなりそうな内容ですよね。でも、夜遊びの現場で面白いのは、そのパーティのように、その時のタイミングで色んなことが偶然重なってしまう奇跡のような瞬間があるということ。
CE$:つかず離れず、今は離れていても、どこかのタイミングで繋がったり、また違うことがやりたくなって離れたり。そういう距離感がいいと思うんですよ。大阪やったら、tofuとショウヘイくんが会えば、普通に話したりとか、自分たちの周りにはそういう壁があまりないんですよね。そうかと思えば、その翌年、2011年11月にNUOOHでやったtofuの”水星”リリースパーティは、PUNPEEくん、EVISBEATSさん、okadada、Matsumoto Hisataakaaさん、コッペパン、シキブ……当時、自分が仕事で関わってた人たちに参加してもらったんです。
tofubeats:その時の集客は確か4、50人くらいでしたからね。しかも、そのなかの1人が着物を着たおばあちゃんでしょ?
CE$:そう。上下真っ黒の着物を着たおばあちゃんがオープンからクローズまでずっといて。出演者は全員気づいていたんですけど、誰かの身内だと思って、誰もそのことに触れなかったんですよ。で、パーティが終わってから、EVISBEATSが「あのおばあちゃん、みんなにも見えてます?」って言ってきて。「見えてます見えてます。大丈夫です」って返したら、「ああ、よかったー。みんな何も言わへんから、ボクだけに見えてるのかなって」(笑)。ただ、それが誰だったのか、いまだに分からないですけど。
— 今、そのメンツを揃えるのは大変なことですけど、それも時代のタイミングで偶然一致したということなんでしょうし、たまにそういう事故に遭遇するから夜遊びが止められないですよね。歴史的にも、例えば、同じ地元出身だったDCハードコアのMinor ThreatとファンクバンドのTrouble Funkが一緒にライブをやった夜、MC5とSun Ra Arkestraがデトロイトで一緒にライブをやった夜が伝説になっていたり、同じ地元のバーに通ってたChaos UKとMassive Attackのアートワークが共通していたり、現場では通常あり得なさそうなことが平然と起こったり、繋がったりする。
CE$:そういうのが超良いというか、一番興奮する話ですよね。クラブやライブハウスに限らず、通ってるバーとかスポーツジムとか、接点は何でもいいと思うんですけど、意図せず、そういう事故が起こりえるところが音楽のあるべき姿のような気がしますし、それによってリスナーが思いがけず新たな音楽を聴くきっかけになったり、いい意味での間違いが起きたらいいなって。tofuの『POSITIVE REMIXES』でRamzaに参加してもらったり、BUSHMIND、DJ HIGHSCHOOL、STARRBURST、MASS-HOLE、ENDRUN、YOSHIMARL、SH BEATSにリミックスをお願いした『Tofu Recipes』をリリースさせてもらった時は、普段、J-POPを聴いている人にこういう音楽があるということを知ってもらいたかったという思いもありました。そういう自由度の高いことはぽんぽん出来るわけではないですけど、根底にはそういう理想が常にあるというか、少なくともそう思わないことには物事は変化していかないと思います。
tofubeats:立場的には、当然、周りから売れることを求められるんですけど、売れそうなことをそのままやって売れたとて、それによって何が得られるのか。そうではなく、自分は危険球を投げることを楽しみながら音楽をやっているし、その危険球をどう投げるかが自分にとっての裏テーマだったりしますから。
CE$:その点、自分は間に立って、色んな意見を汲んで調整する役割なので、どちらかといえば、保守的な考え方だったりするんですけど、tofuの考え方はもっと過激なんですよね(笑)。ただ、tofuがよくインタビューで言ってるように、音楽というのはすごく良い趣味だし、良いカルチャーだから、みんな、もっと楽しみましょう、って。今の僕らにはそういうことしか言えないんですけど、その言葉には嘘偽りないというか、本気でそう思っているんですけどね。