DJ EMMA。ハウス・ミュージックを愛する人々の中で、このDJの名前を耳にしたことが無いという人はほとんど存在しないのではないでしょうか。1985年の活動スタートから常にシーンの最前線に立ち続けてきた彼は、高い技術に裏打ちされた繊細かつアグレッシブなプレイで海外からも高い評価を獲得し、これまでに世界中のクラブでいくつもの素晴らしい夜を築き上げてきました。そしてこの度、そんな“THE KING OF HOUSE”が、DERRICK MAY、FRANCOIS K.、Timmy Regisfordなど錚々たるDJ陣が参加してきた代官山 AIRの主催する人気MIXシリーズ“Heart Beat”に満を持して登場。Masteredではこれを記念し、初のロングインタビューを敢行しました。
最新アルバム『Heartbeat Presents Mixed By DJ EMMA×AIR』に込めた知られざる想いから、日本のクラブシーンの現状、昨今インターネット上で論争を巻き起こしている風営法の問題など、様々なジャンルに話が及んだインタビューは述べ1万字超。ハウス・ミュージックやクラブに縁の深い方はもちろんですが、音楽にあまり興味が無いという方もクラブを“洋服屋”、DJを“ブランド”に置き換えて、ぜひ彼の言葉に耳を傾けてみて下さい。恐らくファッション業界における状況もそこまで大きく変わらないはずですし、必ずや何か想うところがあるかと思います。
今まで自分のMIX CDを長く聴いて欲しいと思って作った事は無かったです。
— MasteredでEMMAさんにインタビューをさせて頂くのは今回が初めてですので、まずはEMMAさんの音楽遍歴や人となりといった部分からお話を伺っていければと思います。EMMAさんが一番最初に音楽に触れた瞬間というのはいつ頃だったのでしょうか?
DJ EMMA:恐らく幼稚園の時ですね。幼稚園の時に桜田淳子の“三色すみれ”から入って、2曲目はたしか西城秀樹の“ジャガー”だったと思います。
— ご自分で初めて購入したレコードが桜田淳子の“三色すみれ”ということですか?
DJ EMMA:そうです。近所のレコード屋さんに自分の足で行って、初めて買ったドーナツ盤ですね。で、その後はいわゆる“ピンク・レディー ブーム”みたいなものがやって来る訳ですが、それが僕らの世代にとって、初めてのダンスミュージック。自分が人生で初めて踊ったのはピンクレディーでした(笑)。
今考えてみると当時から普通のポップスよりはピンク・レディーとか、郷ひろみとか、ダンサブルな音楽が好きでした。
— それが少なからず、今のご自身の音楽にも影響を与えていると。
DJ EMMA:うん、もちろん音の好みとか、そういう面に反映はされていると思うんですけど、でも実際はミュージシャン、DJと言えども、みんなそんなもんなんじゃないのかな? 「幼稚園からジャズを聴いてます」とか、そんな人って何万人に一人でしょ(笑)?
— まぁ、お会いした事は無いですね(笑)。
DJ EMMA:なので、幼い頃からクラシックの英才教育を受けてるような音楽一家という訳ではなく、僕は極々一般的な家庭環境で育ちました。
— なるほど。具体的に「将来は音楽で食っていこう」と意識し出したのはいつ頃だったんですか?
DJ EMMA:小学校6年生で既にその想いはあったので、中学に入った頃には自分で曲を作り始めてました。それと、直接DJの下敷きになったかどうかは分からないですが、ブラックミュージックの洗礼を受けたのも、丁度中学生の時。同時期に僕の中でテクノとヘヴィーメタルとパンクが全部一緒に来ていたから、そういう異なるジャンルの中から気に入った曲をチョイスして聴いていました。とにかくありとあらゆる音楽を聴きたいと思っていたから、今振り返ると何かに偏るということが少ない音楽遍歴だったかなとは思いますね
— 当時、そういった新しい音楽の情報というのはどこから得ていたんですか?
DJ EMMA:友達ですかね。一番影響が大きかったのは、音楽好きな友達や、先輩たち。今思うと自分にとっての初期衝動は近所のお兄さんの家に行って、初めてギターを触ったことだったんですよ。僕も色々なミュージシャンから影響を受けていますけど、そういう身近なことの方が自分にとっては衝撃的でした。
— DJというよりはバンドマンに近い初期衝動ですよね。そこからDJをやるようになったきっかけは何かあったのでしょうか?
DJ EMMA:まさしく仰る通りで、僕もバンドをやってたんですが、当時は新宿のライブハウスに出入りする機会が多かったんです。でも17、8の遊びたい盛りだったから、ライブハウスだけじゃなく、ディスコにも行きたかった訳ですよ。でもその頃にライブハウスとディスコを行き来している人って、本当に少なくて…。で、僕の場合はたまたま同じような仲間が出来て、ツバキハウスに行ったり、ロンドン・ナイトに遊びにいかせてもらうようになったんですが、とにかくお金が無い(笑)。
だから、何とかしてタダで遊びたいと思っていて、タダで遊ぶにはどうすれば良いんだろうって考えた結果、「働けば良いんだ!」って閃いたんです。実際に働くようになってから、結局は働いてると遊べないんだってことに気付くんですけどね。
一同笑
DJ EMMA:でも働いていると自然と色々な曲を覚えてきて、一般的なもの、そうでないもの、アンダーグラウンドなものっていう区別が段々とつくようになってくる。そこからですかね、DJをやるようになったのは。その頃はレゲエが流行っていたから、レゲエの12インチをたくさん買ってて、友達の誕生日パーティーでDJをやってくれって頼まれたのが最初のDJ体験だと記憶しています。それが18歳の時かな? そこから新宿のブギーボーイってクラブでレギュラーパーティーを持って、同時期に下北ナイトクラブでも働きだして…っていうのが最初の流れですね。
— ハウスを回すようになったのはいつ頃からなんですか?
DJ EMMA:最初はレゲエとロック。次にニューウェーブの日を任されるようになったんですが、その次の年には『コニーズ・パーティ(※コニー・イーが主催を務めた伝説的パーティー。DJ EMMAはこのパーティーのレジデントDJを務めていた。)』っていうのをやり始めていて。それからですね、ハウスを中心にプレイするようになったのは。もちろん、ハウスだけをかけていた訳じゃなくて、時にはニューウェーブやロックの比率が多い日もありましたけど。それが終わってからGOLD(※1990年より芝浦で営業を開始したクラブ)と契約したんですけど、GOLDでもハウスだけをプレイした訳ではないです。
— GOLDと契約する前にツアーでヨーロッパに行かれていますよね。当時、日本人でヨーロッパでプレイをしているDJはほとんどいなかったのでは?
DJ EMMA:MARBOはロンドンに住んで、人気が高かったです。彼ぐらいですかね。逆にいないからこそ、やりたかったですし。トントン拍子に事が運んだのは、90年代初頭のヨーロッパでは日本人のDJがめずらしく、聴きたがっていたという事実が大きいと思うんです。まだ世界中でニューヨーク至上主義みたいなところがあったし、そのくらい当時のニューヨークはすごかったんですよね。日本人のDJもたくさんいたし。でも日本人のDJがいないからヨーロッパを選んだのかというと、そうでも無くて、あまりにも東京がニューヨークの影響を受け過ぎていて、僕にとってはつまらない場所に感じてしまったというか、もう少し日本らしいものがあっても良いんじゃないかと思ったんです。僕個人としては、ニューヨークの物を日本的に直してもそんなに良い物は出来ないんじゃないかと思っていて、やっぱり一から作っていくべきだって考えがありました。だから、その頃は色々と特徴のあるやり方をしていましたね。
— 日本でのプレイと海外のプレイで何か意識的に変えている点はありますか?
DJ EMMA:その辺りも先ほどの「日本人のDJがめずらしかった。聴いたことがなかった」って話に繋がるんですが、海外でのプレイは昔の方がやりやすかったですね。昔は情報自体が少なかったから、その中で選ぶとなると、何と言うかもっとハングリーだったと思うんです。そもそも、当時の日本のクラブシーンって海外の輸入ばかりだったし、なんとなく僕自身も「このまま輸入国で終わるんだろうな。」って意識を持っていたから。輸入国のDJが輸出国で普段と違うプレイをしても仕方ないじゃないですか? だから意識的に何かやるというよりは、僕が日本でやってきたことをそのままやるという選択肢しか無かったんです。でも、それがたまたま受けた。本当にたまたまですよ、これは。それで1回目のツアーは8ヶ所だったんですけど、次のツアーはそれが24ヶ所に増えた。今はまた状況が違いますけど、要は世界的に日本人のDJをちょっと聴いてみたい気分だったんでしょうね(笑)。
ミックステープの段階でどんどん出演が決まって行きました。実力云々よりもやる気の問題だったように思います。
— 90年代初頭、日本のシーンと海外のシーンにはまだまだ大きな差があったんですね。
DJ EMMA:そうですね。実はツアーでヨーロッパに行く前にも、ちょくちょく遊びに行ってたんですが、現地に行ってみると良く分かるんですよ。たしかに色々な国の影響を受けているけど、決して真似をしている訳ではない。イビザのやり方が受けているからといって、それを日本に持ってきても全く意味が無いんです。イビザ的なものをやりたいんだったら、イビザのDJを日本に呼んできた方が早いでしょ? ロンドンでもニューヨークでも、どこに行っても感じることは一緒です。その土地のオリジナルを作り出すってことが、僕にとっては普遍的な目標なんです。
— その時から10年以上が経過しましたが、今、東京で、東京的なもの、東京オリジナルのものというのは生まれてきていますか?
DJ EMMA:あるとは思います。でもその東京的なものが果たして国際レベルなのかどうか、ネームバリューだけで集まるような人たち以外の層に本当に通用するものなのか、っていう部分は大きな問題じゃないですか?
オリジナリティがあると言っても、それはただ突飛なだけのものかもしれないし。そうではなく、誰もがすんなり入れるもので、尚且つ新しいものっていうのは本当に難しいですよ。答えが出ないから。だからこそ僕はそれを追い続けているんじゃないかなと思います。
— 先ほどGOLDのお話が出ましたが、読者の中には「GOLDって話では良く聞くけど、どんなものなのか分からない」という方もたくさんいらっしゃると思います。EMMAさんの言葉で簡単に説明して頂くと、どんな空間だったのでしょうか?
DJ EMMA:まぁ、一言で言うとハウスミュージックというものが上陸して以来、それを最も誤解されない形で、広く一般に伝えたお店ですよね。ハウスをもっと早くからやっていたクラブ、パーティーはたくさんありましたけど、サウンドシステムも含めて誤解が少ない形で伝えられたってことが一番大きいんじゃないかな。客層に関しても本当に世界中から人が来てたというか。バブルだったからってこともあると思うんですけどね。
— たしかにそうですね。
DJ EMMA:そこの問題ですよね。あの頃は日本に海外のクリエイターがたくさんいたし、自分のお金で日本に来ている外国人も多くて、センスのある人たちが集まっていたんです。今とはちょっと状況が違う。今、たしかにクラブは一般化したけど、決して質を求めて一般化してきた訳ではないですから。間口を広げていっただけで、単純に入りやすくなっただけだと思うんですよ。クリエイターやパフォーマーが作る作品、世界は、当然10年前より遥かにレベルが高いし、自分達がはじめた頃と比べても、今は格段に上のレベルにいると思います。でもクラブの実態として考えた時、間違いなく質は下がっていますね。人は多いけど。もしかしたら人が多いから、見つけることが出来ないのかもしれない。実は特別なパーティーっていくつもあると思いますが、見えなくなってしまっているんです。本当にクラブの中だけでやっているものだったら、ある程度アンダーグラウンドな落とし込みに見えると思うんです。今の東京はどうしてもお金のため、サウンドシステムのため、“○○のため”ってなりがちで、僕の中にはそれに対して「でも違うでしょ」って想いがあります。クラブ関係者には「それは理想です。それじゃ成り立ちませんよ。」って言われてしまうかもしれないけど、理想でやって欲しいし、理想で生きて欲しい。そうするべきだって思うんです。やってることが全てだし、言い訳は聞きたくない。
だから、僕らが思っている以上にクラブの人たちのチョイスって重要なんですよ。海外でも、日本でも、良いDJっていくらでもいますから。そういうDJをチョイスするのか、自分達は良いと思っていなくてもネームバリューを優先して選ぶのか。その「自分達が良いと思っていなくても呼んじゃう」って行為が全てをダメにしてると思います。自分達が良いと思っていないDJにも、必ずそのDJを好きな人たちがいて、そのパーティーは好きな人たちがやるべき。そうすれば上手くも、格好良くも見える。「格好悪いけど、スピーカーのためにやる」とか、そういうのが全てをぐちゃぐちゃにしている原因のように思います。DJのスタイルは千差万別です。だからクラブ側のチョイスっていうのは、シーンに対して、大きな影響を与えているんです。東京のクラブ全体が「自分達が面白いと思う人たちを呼んで、パーティーをやろう!」っていう本来のやり方ではなく、結局お金。そうなってしまっているのが現状です。お金が問題の中心になっているクラブがあまりにも多すぎるってことです。クラブが10年、20年続くって本当にすごい事だと思うんですが、だけど、長く続くことが全てでは無い。短期間でも圧倒的な存在感があったりとか、人の人生をまるごと変えてしまうくらいすごいものがある、それがクラブだったと思うんですよね。10年、20年続くのはあくまでも結果なんですよ。今は5年やるため、10年やるためのコンテンツをクラブ側が考えてスタートする。おもしろいものが生まれにくい状況にはなって来ていますよね。
— 非常に勉強になるお話でした。その後、『EMMA HOUSE』をリリースしていくことになる訳ですが、これはどういった経緯で? 今でこそ、DJのMIX CDは当たり前の存在になっていますが、当時はまた状況も違ったかと思います。
DJ EMMA:音源に関してはテクノやハウスが浸透し始めて来た頃で、売れる確証は無かったと思いますけど。実際1枚目はそんなに売れていないですし、すぐに廃盤になっています。でも、そこでレーベルが諦めずに「もう少しやりましょう」と言ってくれた。結果として2枚目と3枚目が売れました。DJによるダンスミュージックのコンピレーションアルバムがオリコンの上位に入るのって恐らく初めてだったから、当時はなんか申し訳なくなっちゃって…。オリコン上位ともなると、ポップ系の雑誌からも取材を受けちゃうんですね。ほとんど僕の曲じゃないのに(笑)。
自分が考えてた以上に、2枚目、3枚目の効果って言うのは大きかったんですよね、自分が思っていたよりも。もちろん、それは自分の望むところでは無い訳だけど、そういう売れ方をした時点で、その頃はそれをどう捌いていくかって考えることがすごくしんどかったですね。売れるってことが仕事にここまで影響するのか、と正直ビビってしまいました(笑)。
今振り返れば、それをきっかけに「勘違いしないようにしよう」と再認識出来たので、結果的には良かったなと思います。
— 今回のミックスは一発録りということですが、何か特別な理由があったのでしょうか?
DJ EMMA:失敗が許されない状況の中で、どこまで感情の起伏を表現できるのかということを試してみたかったんです。実際はいつもやっていることなので、ほとんど失敗はしないんですが、そういう“自分で転ぶ石を置く”というか、簡単では無いことをチョイスするのが好きなんですよね。で、その結果をパッケージメディアとして値段を付けて売るというのはすごく面白いかなと。
— EMMAさんはミックスを制作する際、予め全体のテーマを決めたりするのでしょうか? それとも自分の今の想いや気分を表現することを第一に考えますか?
DJ EMMA:いや、どちらかというと、かける曲そのものがテーマだったりしますね。今回のCDに関して言えば、2曲目の曲はどういう風にすれば、より良く自分が良いと思った感情を多くの人に伝えられるのかということを考えた結果、1曲目ではなく、2曲目に“DO BETTER”を持ってくるべきだとか、そういうことを意識しています。チョイスした曲に関してはAIRに似合うもの、小さい空間の中でも激しさがあったり、生音があったりする感じがAIRらしいところだと僕は思っているので、その空気感を詰め込めれば成功と言えるのかなと。もちろん、想いは色々ありますよ。自分のその時、その日の感情もあります。もっと長いタームで考えれば、今の日本には大きな危機感がありますよね。去年の震災でたぶん1人1人、生命の危機を感じたと思うんです。みんなが同じように感じて、同じように考えたのであれば、みんなが今望んでいるようなDJプレイがしたい。だから今回はそういう感情をストレートに表現したし、繰り返し聴けるアルバムにしたいなと思って作りました。
— 現場でプレイする時と、CDを制作する時ではやはり考えや気を遣う部分も異なりますか?
DJ EMMA:うーん…と言うより、これは長く聴いてもらえるようにと思って作った初めてのMIX CDですね。今までのMIXに関しては流れていってしまうことを良しとしていたし、その為の選曲をしていました。クラブの一晩で終わってしまう美しさに近い物というか、その時の旬な選曲をして、時が経つに連れて流れていくという美しさを意識していたし、記憶されないからこそ面白いと思っている部分があったんですよね。今まで自分のMIX CDを長く聴いて欲しいと思って作った事は無かったです。
DJにとって面白いのは「お客さんが好きな曲で踊ってる瞬間」じゃなくて、「お客さんが変な曲で踊ってしまっている瞬間」なんですよ。
— 海外も含めて、EMMAさんの好きなクラブというか、理想に近いと思うクラブはありますか?
DJ EMMA:いや場所と言うより、結局は人なんじゃないでしょうかね。面白い人がいるクラブはやっぱり面白いですよ。どうしても自分からボールを投げる一方だと疲れてしまうし、僕はDJが偉い存在になってしまうのが本当に嫌なんですよ。僕の普段のパーティーのDJブースが高い場所にあるから誤解してる人もいるかもしれないんですが、本当はDJブースも同目線が良いし、なんならフロアより下でも良いぐらい。
一同笑
DJ EMMA:本当はそれ位で楽にやりたいんです。そうすれば、ジロジロ見られないし(笑)。
まぁ見ちゃう気持ちも分かるんですけどね。でも、人間が本当に音楽に集中しているときって大体目をつぶりませんか?
— あー、なるほど。
DJ EMMA:自分でも気持ち良い時って目をつぶってることが多いような気がしますね。話は戻りますけど、自分が楽しくプレイするためには、当然良いお客さんが多くいる場所の方が良くて、自分が投げたボールを返してくれるお客さんの方が面白い。で、返してくれるお客さんが多いのはやっぱり海外ですね。ただ日本のお客さんの良いところは静かに音楽を聴いてくれるってこと。アメリカとかは盛り上がりはすごいんだけど、その代わりに滅茶苦茶というか(笑)。
音楽をちゃんと聴いてくれるってミュージシャンやDJからしてみれば相当嬉しいことですよ。それは日本のクラブの良いところだと思います。
— その辺も変な意味ではなく国民性なんですかね。ではEMMAさんにとって理想のパーティーというのはどんなものですか?
DJ EMMA:一言で言えばシンプルで、一晩を楽しめるダンスパーティーってところですかね。何か悩んだり、迷ったりした時に、踊りに行くとすっきりして帰ってこられる場所というか…。少なくとも僕のパーティーはそうでありたいと思っているし、もっと細かく言えば何か出会いがあって欲しいとか、そういう部分も含めてオーガナイズしてるつもりなんですよ。だから多少はナンパの手伝いとかもしてる訳です(笑)。
ただ盛り上がるだけのパーティーをやりたい訳では無いんです。だって、何事も起伏が激しいほうが楽しいですよね? だからそういうパーティーが良いパーティーなのかなと。シンプルなものが好きなんですよ。それはずっと変わらないです。
— たしかにEMMAさんはロングセットでプレイすることが多い印象がありますね。1回のパーティーにどれくらいのレコードを持っていかれるんですか?
DJ EMMA:200枚ぐらいですね。それ以上持っていっても悩むだけだし、機転が効かなくなっちゃうから。今ってPCを一台持って行かなくてもメモリースティックで何万曲って持ち運ぶことも可能じゃないですか? でもそうすると結局家と同じ状態になってしまう。クラブだからこそアナログをかけたい。よく「アナログは重いから」なんて言うけど、レコードなんて5人いないと持てないってものでもないでしょ。MP3でPCをカチャカチャやって手ぶらで帰るなんて、全然スマートに見えないですよ。僕はアナログレコードをかけているスタイル自体が格好いいと思う。持ち歩くのは全く苦では無いですね。
— その200枚の中身はどういうタイミングで入れ替えるんですか?
DJ EMMA:ある程度は固定ですね。そこからその日の天気だとか、色々なことを考えて、気分で何十枚かプラスする感じです。ただ、それがその日にかかるかっていったらそうでも無いんですよね。新しい曲をかけないと自分が飽きてしまうから、どうしても新曲中心になってしまうんですが、そこにちょっと懐かしいのを入れたり、良くわからないものが入ってるっていうのが理想かな。未だにアンセム系を1曲目にかけちゃうDJって実際に沢山いますから。それではその曲の価値は下がってしまう。曲の価値を下げるのはDJのするべき事では無いと思うんです。例えすごく出来が悪い曲でも、それなりに聴かせるのがDJの仕事ですからね。DJにとって面白いのは「お客さんが好きな曲で踊ってる瞬間」じゃなくて、「お客さんが変な曲で踊ってしまっている瞬間」なんですよ。踊りたくて仕方ないから踊ってるんだけど、心の中では「あれ?なんでこんな曲で踊ってるんだろう」っていう瞬間(笑)。
そういう瞬間を多く作り出せるDJでありたいですね。
— 海外も含めて、最近面白いなと思うDJ、ミュージシャンがいたら教えてください。
DJ EMMA:抜群に面白いのはDJ Pierreですね。1年前くらいに自分のレーベルを作って、色々とやってるんですが、頑張っている割にやることは何一つ変わって無い(笑)。
“歌モノ”やるから自分のレーベル作って、コラボもしたよって言うなら分かるんですが、一貫してアシッドハウス。「この時代にアシッドハウス1本かよ!」っていう面白さですよね。機材も変わって無いし、本当に何も変わって無いから、男気を通り越して、この人ちょっとおかしいんじゃないかなって思うくらい。でもそこが魅力的ですね。
一同笑
DJ EMMA:決してフォロワーになりたい訳では無いんですけど、アシッドハウスは何かの形でやりたいなと思ってるんですよね。というのも、僕の中でアシッドハウスが何なのかっていう正体を未だに掴みきれていないから。だからやりきりたいという思いがあって、これはしばらく続けると思います。
— 他に今後何かやってみたいことはありますか?
DJ EMMA:まだ具体的に何をやっていいのかは分からないですが、今やっているレギュラーのパーティーとは別の形でのパーティーっていうのを模索中ですね。時代的にある程度フィットしていて、尚且つ半歩先を行っているパーティー。例えば会員制のパーティーとかね。さっきも言った通り、良くも悪くも今は間口が広すぎる部分があると思うので。
— EMMAさんは地方のクラブにツアー等で行かれることも多いと思うのですが、やはり地方と東京のクラブに格差はありますか?
DJ EMMA:格差というか、地方のクラブってやり方だけは東京なんですね。だから、チグハグになっています。そう考えると東京さえしっかりすればどうにかなると楽観的に考えています。しかし、地方のクラブに行くと普通のパーティーで5.6人のDJで廻す事が多い。札幌のPRECIOUS HALLのように一貫してポリシーを崩さない所は本当に少ないです。東京のクラブが迷走しているのに、それをお手本にしているから気付かずにいるんですよ。だから、最初の話に戻りますが、東京のクラブの責任がどれだけ重いのかってことですよね。
— クラブの現状と言えば、昨今、風営法の問題が大きな話題となっています。差し支えなければ何か思うところ、ご意見を頂いてもよろしいですか。
DJ EMMA:悔しいけれども、現在の日本の風営法では僕たちDJは毎週末、法を犯しているという事になります。
この業界で仕事をするのであれば、向き合わざるを得ない問題です。きっかけとなった1982年の事件は、女子中学生2人が新宿のディスコでナンパされ千葉の森林で暴行を受け、アキレス腱を切られ捨てられ、一人は死亡という凄惨な事件でした。数行の言葉でこの事件の事を語るのは不可能ですが、当時、社会現象にまでなったこの事件が直接的な原因です。当然風営法は厳しいものとなりました。良く覚えていますが、映画化もされています。クラブやディスコが危険な場所だと判断された訳です。その歴史が現在にフィットしていないという事を訴えるのであれば、DJをとりまく環境を例に挙げて、世界の現状はこうだからとか、音楽の力とか、文化とか、簡単に口に出さないでほしい。なぜなら、やれて来れなかったから今の現状があるんです。自由を訴える立場ではなく、認めてもらう立場のはずなのだから、地域に貢献をしていないと次に進めないんじゃないかと思うんです。僕たちも何度か風営法に関して動いた事がありますが、僕らの世界は僕らの営みからしか変える事が出来ないと痛感しました。確かに潰れたお店も沢山ありましたが、先人たちは調整という形で乗り越えて来ました。それでも幾つもの素晴らしい夜を作って来ていると思います。本来であれば風営法の事は、しかるべき場所で十分な時間と準備をして原因から話し合って行かなくてはいけないのではないでしょうか。新風営法の改正の直接的原因となった1982年の犠牲者が出た事件と、最近の一連のクラブの締め付け(京都、大阪など)の発端とみられている大阪のクラブでの死亡事故に、大義名分のため、触れないようにして進めて行く運動には賛同出来ないし、そこまで調べて考えてから署名をしているのかという点についても疑問に感じます。
— では最後の質問になりますが、今後DJはどういう存在になっていくとお考えですか?
DJ EMMA:うーん…正直に言えば、僕にも分からないです。憧れの対象であって欲しいと思う反面、今の“DJに対する憧れ”は何かが違うように思うんです。今のDJという職業のとらえられ方って、少し悲しい結末ですよね。でも、それは僕個人では止めることが出来ないから。自分の周りの人間であれば、「違うだろ」って言えるんですが、そんなに誰とでも仲が良い訳ではないので…
一同笑
DJ EMMA:こんなことばっかり言ってると、クラブから仕事が来なくなっちゃいそうですけどね。
DJ EMMA DJスケジュール
6月15日(金) TROUBLE HOUSE@WOMB
6月23日(土) RELEASE PARTY@MAGO-Nagoya
6月30日(土) RELEASE PARTY@AXIS-Kagawa
7月7日(土) ULTRA MUSIC×CLASH@ageHa
7月12日(木) RELEASE PARTY@ONZIEME-Osaka
7月14日(土) RELEASE PARTY@MANIER-Kanazawa
7月15日(日) DEFECTED IN THE HOUSE@VISION
7月20日(金) TROUBLE HOUSE@WOMB
7月21日(土) RELEASE PARTY@CLUB ADD -Sendai
7月28日(土) Heartbeat Presents Mixed By DJ EMMA×AIR Release Party@AIR
8月4日(土) ULTRA MUSIC@ageHa
8月11日(土) RELEASE PARTY@NEST-Utsunomiya
8月17日(金) TROUBLE HOUSE@WOMB
8月18日(土) RELEASE PARTY@THE PLANET- Niigata
8月25日(土) RELEASE PARTY@CAVE-Kagoshima
8月31日(金) RELEASE PARTY@NEO-Fukushima