シーズンテーマは”TheSoloist. is .”
自分という「存在」は何者であり、「存在」あるいは「所在」は何を意味するのだろうか。
自分が何者であるのかという問いを認識する自己意識は、同時に他者の視線を自覚することでもある。宮下の自分自身という不確実な「存在」と対峙する誘因として、デヴィッド・ボウイという「存在」は、概念言語の理性によって閉ざされた領域、言語的に構築されたシステムの自己からの脱構築=「変身」を認識させる。それはまるで”ジギー・スターダスト”などのペルソナを想起させる。
TAKAHIROMIYASHITATheSoloist.の洋服は、自分の囚われた「存在」を否定や無意味なものにすることによって自分から脱するわけではなく、これまでの一貫したアイディアの延長線上に新たに別人格へと「変身」することで制限や束縛を強いる視線、予定調和で運命的な期待からの自由と反逆を示唆する。その行為は、実名とは異なる「変名」や正体さえ明らかにしない「覆面」としてのアイデンティティを確立することで既存とは違う領域での創造を可能にする。しかしそのスタンスは決して側面でも裏側でもなく、表側として「存在」するが、その姿は誰にでも見えるものではない。何故ならば本質は自分自身であることに変わりがないからだ。「存在」が自己の外的側面ではなく、別の人格として”SKOLOCT”へ「変身」し、ベーシックやシンプルな「存在」を理解した上で、それらがあたかも正解であるという共通言語や時計じかけの退屈な理性を引き裂くために三本の爪を現す。
ある組み合わせの方法論として、僧侶用法衣に使用される絽や紗などの日本的な素材や、故意的にピントをずらした着物、羽織のような要素、「変身」するまで自分の中に欠片もなかったはずの日本という視点の概念は、ジャポネスクともナショナリズムというベクトルとも異なり、所在がつかめない無国籍で不確実なオリエンタルの世界観を俯瞰的に見出す。
人格は身体をもった個人とイコールではなく、その「存在」自体を創りだす。クロスオーバーする意識のスクリーンに像を結び形作る光景から、つねに不可視の全体を想像してみる。ソロイスト.とは。自分自身とは何者であり、これからどの方向に進んでいくのか自問自答を繰り返す苦悩と対峙する。
海の果てまで辿り着いても、そこから落ちてしまうのではなく、その先にも海が広がっているに違いない。逸脱した変幻自在の「存在」であり続けるための恐怖と不安を探求する長い作業は、明日がやってくる音を聞くための旅となる。屈折する星屑の輝きは、戻れない時間という足跡を照らし、その「存在」を変化させる。
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