日本のエレクトロニック・ミュージック史における金字塔といえるマスターピース『LOVEBEAT』から10年。経年変化をものともしない音の革新性だけでなく、時代性や社会状況と向き合った先で聴き手に感覚的な覚醒を促したこの作品によって、日本の音楽シーンを切り開いた砂原良徳。しかし、その後、後続の作品が待望されていたものの、長らく沈黙し続けてきた彼の5作目となるアルバム『liminal』が遂にリリースされた。
規則的なクリック音に導かれ、ゆっくりと現出する驚異のサウンド・スケープは、しかし、前作とは明らかに様相が異なり、音数を増し、ノイズ成分を含んだ圧倒的なクオリティのサウンド・プロダクションやイレギュラーなトラック構成が言葉での捕捉範囲を超えて、新たなリスニング体験を提示する。それが一体どういうものであるのか。作品を聴きながら、彼が投げかけるヒントを通じて、その一端をつかまえていただきたい。
(このインタビューは2011年3月7日に収録されたものです)
人から人へのコミュニケーションを意図しない音が存在するのであれば、そういうものを探していきたいと思った。
— ニュー・アルバム『liminal』が10年ぶりにようやくリリースされたわけですが、ここまでに至った砂原さんの率直な感想としてはいかがですか?
砂原:前作から10年と2週間くらいとか、ホントにジャスト10年なんですよね。今回、リリースにこぎ着けたという意味では「ようやく出せた」って感じなんですけど、大々的に「復活!」って言われるのは好きじゃないし、実際のところ、今回のアルバム制作に10年費やしたわけではないですからね。
— アルバム制作を始めたのは?
砂原:2008年に『No Boys, No Cry Original Sound Track Produced by Yoshinori Sunahara』のサウンドトラックの制作に取りかかった頃、スタッフと「アルバムの出す準備を徐々にしていこうか」っていう話をしたのがその取っかかりですね。
ただ、それ以前に作り貯めたリズムやフレーズ、ちょっとずつ手をつけては曲にならなくて、バーンって放り出してあったものがストックとしてあって。
それを実際にアルバムの形にまとめ始めたのは、シングル「Subliminal」が完成した後なので実作業はそこまで時間はかかっていないんですよ。
— 『LOVEBEAT』がリリースされた2001年以降の音楽制作はどのような流れだったんですか?
砂原:『LOVEBEAT』を作り終えた時には次に何をやろうか?っていうアイディアが見えなくて。その後、『LOVEBEAT』の延長線上にある作品を、3、4年考えていたんですけど、時間が経つにつれて、「『LOVEBEAT』は『LOVEBEAT』であって、その先は存在しないんだな」っていうことに気付いていったというか。
とはいうものの、『LOVEBEAT』は自分が帰るべき家にあたる作品でもあって、軸足は『LOVEBEAT』に置かれていたりはするんですけど、『LOVEBEAT』を磨いていくだけの作業で完結してしまうには自分はまだ若いし、ギミックを極力排除しようと思って作業してきた『LOVEBEAT』って、実は新しさがなくて、それがよかったんじゃないかって思ったりもするんですよね。
だから、より普遍的な音楽を目指すのであれば、まだ不完全な部分を追求したり、まだ探さなきゃならないこともあるだろうなって思って、『LOVEBEAT』とは違うことを探し始めていったんです。
— その模索段階で、例えば、新しい音楽をあれこれ聴くことによってヒントをもらうという方法もあるかと思いますが、砂原さんの場合、そうやってヒントを得ることはなさそうですよね。
砂原:そうですね。そこまで意識的ではなくとも、いま世の中でどういう音が鳴っているのかということはある程度分かりますし、その過程で「過去にやってる人がいるから、このやり方はダメだ」と思うことはあっても、特定の作品に共感して、ヒントを得るようなことはなかったですね。
— だとしたら、何をどうやって模索していくのか。
砂原:まず作り始めていくなかで、ぱっと和音を弾いた時に「全然面白くないな」って思ったんですよね。で、何で面白くないかというと、鍵盤そのものがルール以外の何者でもないからなんです。巷のポップ・ソングにはギターでも、シンセでも、ドラムでも、よくあるリフや聴いたことがあるフレーズが存在しているし、4小節進んだら展開するっていうような大まかなルールがあると思うんですけど、それ自体が白々しく感じられたんですよね。
で、この白々しさは何なんだろうなって考えていった時に……あの、ちょっと話が逸れるかもしれませんが、音楽の最初、人類の歴史において何が音楽の始まりだったと思いますか?。
— 規則的に打ち寄せる波の音、ですかね。
砂原:色んなインタビュアーの方にこの質問をして、その答えははじめてですよ。僕もそう思ったんですよね。人が何かを叩いたり、声を出すっていう行為は人から人へのコミュニケーションじゃないですか。でも、波の音だったり、風の音の場合は人と人のコミュニケーションではないわけですよね。
世の中にある音楽は9分9厘、人とのコミュニケーションが意図されているし、僕も一個人であり、人間から脱却することは出来ないんですけど、それでも人から人へのコミュニケーションを意図しない音が存在するのであれば、そういうものを探していきたいと思ったんです。
ただ、その先の話、今、自分のやってることは言葉で説明したり、映像に変換することが難しくなってきているんですけど、そうかといって、説明出来ないから、やらないということではなく、逆に考えれば、自分がやってることを100パーセント説明出来てしまうことの方がつまらないんじゃないかなっていう思いもあったりして。
— では、今回の作品ではルールを超えた先にあるもの、説明出来ない部分を掘り下げていったわけですね。
砂原:ただ、無秩序な音楽がいいのか?と問われたら、そうでもなくて。というのも、ルールに則らないイレギュラーなものを作品に取り込もうという意図そのものは意識的な行為ですし、自分が人間から脱却することも出来ないわけですからね。
だから、例えば、今後一切、和音の平均律を使いませんっていうことではなく、平均律との付き合い方を考え直したり、そういうルールや秩序の新しい形、新しい感覚……そういうものはないのかもしれないけど、あると信じて、今回の制作に取り組んでいったんです。
— なるほど。
砂原:あの、僕はいちおう音楽を仕事にしているんですけど、シンセサイザーが出てくる以前、70年代以前の音楽、例えば、フィンガー5みたいな歌謡曲やポップ・ミュージックをいいと思ったことが僕には一度もないんですね。
もちろん、大人になった今、そういう音楽がある特定の時代を象徴していることを好意的に思ったりもするんですけど、当時の僕はいわゆる音楽好きではなかったし、なんでシンセサイザーに反応したかというと、聴いたことがないものだったからなんですよね。当時のアニメの効果音とか主題歌ではシンセサイザーが結構使われていたんですけど、そういう音楽であったり、3〜4歳の時によく聴いていた蒸気機関車の音が入ったレコード……そういうものをよく分からないままに音楽として聴いていましたね。
で、蒸気機関車の音がなんで面白かったかというと、設計した人や運転している人が意図して出した音ではなく、不都合なものとして出たノイズがなんらかの秩序を生んで、自然と音楽になっているところに僕は興奮させられていたんですよ。
— つまり、今回の作品は、砂原さんの音楽の原体験に立ち返るような側面もあった、と。ここまでのお話を整理する意味で、それを今回の作品に置き換えるなら、シングル「Subliminal」が意味するところの“無意識”とアルバム『liminal』が意味するところの“意識”、その狭間で揺れている音楽を今の砂原さんは追求されているということですね。
砂原:そこまで深く考えてタイトルを付けたわけではなかったんですけど、結果的にはそういう解釈が出来るなって自分でも最近気付いたというか(笑)。
— 今回の作品を聴かせて頂いて思ったのは、定型のフォーマットのスクラップ&ビルドが繰り返される今回のトラックは一聴して何拍子の曲なのかよく分からないものが多いなということ。
砂原:そうなんです。自分でも作ってて、何拍子なのかよく分かってなくて、ミックスの時にエンジニアの益子(樹)さんに「これ何拍子なんですか?」って聞いて、そこで初めて何拍子の曲なのかを知ったというくらい(笑)。
なんでそんなことになったのかというと、基本的にシークエンスを組む時、大体、4分の4拍子で作ることが多いんですけど、今回は一拍って概念だけは維持して、何分の何拍子ってことは無視したんですよ。そうやって作っていくと結果的に自分でも何拍子か全然分からないっていう。でも、それでいいんだなって思ってた部分もあります。
— じゃあ、聴き手が何拍子の曲なのか、よく分からなくても当然というか。
砂原:そう思うのは全く正しいことですよ。自分としてもこの考え方をさらに突き詰めていくことが出来るなと思っていますし、この作品を作ってしまったからにはまた次も作らなきゃならないなって。そう思えたことが『LOVEBEAT』完成時とは大きく違う点ですね。
— 今回の作品は、音数が圧倒的に多くて、BPMが早いことも『LOVEBEAT』とは大きく異なるポイントですよね。
砂原:増えてる音数っていうのは、その大半がノイズ、曲を汚す音なんですけどね。
あと平均律との付き合い方を考え直したいという発想、まずは曖昧にするってところからスタートさせたところも作品がノイズ化した要因の一つだと思うし、あと、単純にノイズが好きなんですよね。
ギーッっていうドアの音も、プシューッっていう電車のブレーキ音も両方ともノイズだし、一言でノイズといってもいっぱいあるじゃないですか? 今回の作品では実際にノイズっぽいサンプリングや現実音も結構使いましたよ。リズムを組むにあたって、今まではドラム・マシンに入ってる音を使っていたんですけど、今回はノイズから作ったり、今まで以上にそういう試みは行いましたね。
— ただ、その一方で平均律であったり、いわゆる音楽のルールというのは、生まれ育つ過程ですり込まれたものですよね。それをどう回避しながら作品を作るか。非常に難しい課題だと思うのですが。
砂原:そうなんですよね。だから、自分をいかに解放出来るかっていうところが勝負だと思うんですね。それはねぇ、どうなのかなぁ……それは今後音楽を作っていくなかでどうなっていくかはちょっと分からないですけど、僕のソロ・プロジェクトにおいては、そういう課題があることは確かですね。
例えば、(いしわたり)淳治くんと一緒に作っているような、形式的というか、四コマ漫画的な作品世界はそういう世界として別に存在させていこうと思っているんですけど、ソロ・プロジェクトにおいてはそういう課題がたくさんあるんです。
— 逆にいえば、いわゆるポップ・ミュージックの意匠を借りた、いしわたり淳治くんとのプロジェクトがあるからこそ、ソロではフリーフォームな音楽に取り組むことが出来た、と。
砂原:全くその通りだと思います。だから、ソロ・プロジェクトが極端なものになったんだと思います。
例えば、『LOVEBEAT』にしても、ああ見えて、曲の構成は普通のポップ・ミュージックっぽいんですよね。あの作品が難解に思われなかったのは、8小節進んだら変わって、また8小節進んで、サビ的な扱いのパートが出てきて……っていう割と形式的な構成があったからだと思うんですけど、今回はその構成も極力崩してみたかった。
ただ、構成を崩しても、1、2回聴いた段階で、その構成を覚えてしまうので、現場では10回、20回と聴きながら、「あ、まだ聴けるな」っていうような話してましたね。まぁ、でも、それは音楽が持ってる宿命であるようにも思うんですけど。
— ということは、作った音源を寝かしたり、何度も繰り返して聴くことで、“ありなもの”と“なしなもの”を判断していったわけですね。
砂原:そうですね。だから、今回は1枚のアルバムを作る過程で生まれた残骸やゴミがものすごく多いです。それをちゃんとまとめれば、アルバム1枚ぶんくらいはあると思います。とにかく残骸は多かった。
— そういう作り方であるからこそ、外の客観的な視点を取り入れるべく、ミックスをエンジニアの益子さんにお願いしたわけですか。
砂原:そうですね。客観視出来る対象が必要だったことはすごくあると思うし、あと益子さんとは『No Boys, No Cry Original Sound Track Produced by Yoshinori Sunahara』の頃から一緒に作業をするようになって、最初の頃と比べると今の方が彼に対して多くを説明する必要がなくなってきたんですよね。
それに最初に作業を始めてから、ある程度のところまで音質を突き詰めたいっていう思いが彼のなかにはあったはずだし、僕のなかにもあったんです。
そして、結果的に今回の作品は音質的なところでいうと、何枚か一緒に作業をしてきた末に、あるレベルを超えるものになったんじゃないかなって。
— あと、サウンド・プロダクションに関して、ステレオのLRの緻密な使い方やうねるようなグルーヴ感に象徴される聴き手を揺らす感覚は今回の作品の大きな特徴であるように思いました。
砂原:それはね、技術的な進化に引っ張られたところがかなりありますね。新しければ何でもいいわけではないし、古いものは捨てて、新しいものに変えてしまおうとも思ってはいないんですけど、ここ10年で音楽の作り方がコンピューター主体になって、処理能力もものすごくあがっていますから、そういう進化によって今まで生まれてこなかったものが生まれる可能性はかなりあって。というか、実際に生まれてきたとも思うし、そういう部分は常に気にしていますからね。
あと、以前はシークエンスを組むにあたっても、五線譜に基づいた作り方が多かったと思うんですけど、それもずいぶん変わって、TENORI-ONのような五線譜を逸脱した作り方が出来るようになったこともあって、そういう試みにチャレンジしたところもあるし、当時、やりたくても出来なかったアイディアが技術の進化で可能になったことで試みたこともありますね。
ただ、過去の作品を聴き直すと、自分なりに実験はしていたので、「なんだ、これ。自分ですでにやってたじゃん」って思うこともあるんですけど、その精度は今の方が圧倒的に高くて、昔やったことでも結果的にはだいぶ違うものになっているんじゃないかな。
— と同時に砂原さんは音の快楽性のみを追求してきたアーティストではなく、思想性や意味、あるいは時代との距離感であるとか、そういった背景が過去の作品には明確にあったと思うんですけど、その点に関して、今回の作品はいかがですか?
砂原:今までの作品は、その時々の時代性や雰囲気を自分なりに感じ取って、それを音にしたり、言語や映像にしてきたんですけど、さっきも言ったように、今回の作品を制作するにあたっては、自分の出している音が言葉や映像に変換しにくくなって、説明出来なくなってきているので、そうした意味での表現が変わってきた部分はあると思います。
今回のアルバムにも「Capacity」って曲が入っていたり、そういう問題提起が全くなくなったわけではないし、今後もそういうことはやると思うんですけど(笑)、今はちょっとそういう感じではないかもしれないですね。もしかすると、物事の変化のスピードがあまりにも激しすぎて、自分でも消化しきれない部分があるのかもしれないですし、人類全体が実はそんな感じなんじゃないかと思ったりもします。
— 言い方を変えれば、混沌とした社会状況が作品に反映されているということなのかもしれませんね。
砂原:それはあると思いますね。特に日本はあんまり明るくないと思うし、別に暗いから暗い曲をやって、明るい曲をやっちゃいけないっていうわけでもないんですけど、暗いのに明るい曲をやってる状況が自分をさらに暗くさせるっていう(笑)。
— ただ、砂原さんがずっと聴いてきたテクノ、ハウスの大半はファンタジーを提示してきた音楽だと思うんですね。
砂原:デトロイトから出てきたテクノは単なるファンタジーではないと思いますけど、まぁ、でも、確かにファンタジーの要素が多く盛り込まれた音楽ですよね。
— そのことを考えると、現実が投影された砂原さんの音楽は、やはり特異なエレクトロニック・ミュージックだと思います。
砂原:確かに僕は現実を前提に音楽を作っているし、そうじゃなければ、あんまり面白くないなって思っちゃうんですよ。それに今は現実から逃避したいっていう欲求はあまりないというか、今、逃避することは逆に危険なことのような気がするし、いいことも悪いことも一緒に見せたいんですよ。
この10年、音楽は進化したし、機材面での技術革新もありながら、これといったムーヴメントや音楽的な連帯感はなかったと思うし、それはこれからの10年もないでしょう。もう、そういうプロセスは終わったんだと思います。
ただ、その終わったなかで音を出すなら、どういう音の出し方をしなければならないのか、その活動の仕方も考えていかなきゃいけないなって今は思ってますね。
— しかし、今回お話をうかがっている限り、次の作品は遠くない将来作られ、発表されるんだろうなという気がしています。
砂原:そうですね。そんなにかからないと思います。今は自分にとって、まさに新しいことをやり始めた時期だと思っていますし、自分のなかでの課題もまだまだ突き詰めることが出来ると思っているので、1年、2年で次の作品が出せるんじゃないかと思います。
そういう意味で一つのゴールのような作品だった『LOVEBEAT』に対して、今回の作品は新しい段階の入口にあたるアルバムだと考えてもらうのがいいんじゃないかな。
発売中
KSCL-1666?KSCL-1667 / 3,360円
(Ki/oon Records)