先日、トークイベント『theatre lounge』の開催と共にそのユニークな試みをお伝えした、会員制オンライン映画館『theatre tokyo』。本当の意味での”自由”を追求する表現者のために作られた同館は、瞬く間に多くの賛同者を集め、キュレーターには坂本龍一、林海象、村上淳、丹下紘希など、様々なジャンルの著名なクリエイター達が名を連ねている。
そしてこの度、Masteredは『theatre tokyo』のコンセプトに共感し、その発起人の1人である映像作家、柿本ケンサクと共に連載企画『シアター芸術概論綱要』をスタート。本連載では毎回、革新的な表現者をゲストに迎え、柿本ケンサクがインタビュアーとしてその本質に迫ることにより、”いくつになっても輝き続けるアウトロー達の生き方の軌跡”を描いていく。
Vol.00と銘打った今回は、そのプロローグとして当編集部が柿本ケンサク自身にインタビューを敢行。突如としてWEB上に誕生した『theatre tokyo』の理念、概要、『シアター芸術概論綱要』の今後など、同人物の考える本質論に迫った。
web上に映画館を作れば、田舎のビデオ屋でジム・ジャームッシュを借りてる少年でも、田舎のどこの映画館でもやっていない”パリで旅しているだけの男の話”を観られるようになるのかなって。なんか、そういうのがあっても良いじゃないですか。
— 今回は連載をスタートするにあたってのプロローグ的な回になるので、まずは柿本さん自身にお話を伺えればと思います。柿本さんはどういういきさつで映像を撮り始めたんですか?
柿本ケンサク(以下、柿本):元はといえば僕は「映画がやりたい」と思って東京に来たんですよ。それでいざ映画をやり始めてみると、思っているよりも映像の世界は複雑だった。具体的に言うと、映像と一口に言っても様々なジャンルがあって、映画、コマーシャルフィルム、ミュージックビデオ。TVドラマ。いまではその枝葉はもっともっと複雑にひろがっています。当時、これはいまでもそうかもしれませんが、「映画は映画」、「コマーシャルフィルムはコマーシャルフィルム」、「ミュージックビデオはミュージックビデオ」、「アートフィルムはアートフィルム」という風に、同じ映像なのにそこは同じではなく、各々のジャンル間の隔たりがすごくありました。中には、それぞれが、お互いに対してちょっと悪口を言い合う感じと言うか…。映画の人は「コマーシャルの奴は芝居の撮り方を知らない」とか、コマーシャルの人は「あいつらは映画の奴だから」とか、アートをやってる人は「所詮、広告でしょ、映画でしょ」とか、どっちもどっちって感じですね(笑)。
映像の世界にはそういった負けず嫌いというか、ずっと張り合っているような独特の感じがあるんですが、そういう空気を感じていく中でいつの間にか、僕はその中でミュージックビデオやコマーシャルフィルムをやるようになった。なぜかいうと映画はもちろん好きだったんですけど、単純に映画では食っていけないからです。だから、映画をやるために映画をやめようって決めました。そのとき、映画に対する考え方、スタンスが少し変わったんですよね。一方、コマーシャルフィルムを”自分の作品”にするつもりは全然無かったです。コマーシャルフィルムでは、僕の映像がどうとかっていうことよりも、当たり前ですが商品をPRすることが目的であって、ミュージックビデオであれば、アーティストと楽曲がPRできればいいわけです。別に俺の作家性が立つ必要は無くて、自分は多くの人が関わる大きなプロジェクトを動かす一人にすぎず、その大きな歯車の一部になるべきだと思った訳です。そして、“作品”と呼ばれるものは“映画”でやろうと。
“自分の作品”だからこそ、借金をしてでもやる。僕は映画をそういう位置に置きました。映画が好きだから。映画で食おうとするとどうしても作品を商業ベースに寄せなければならないじゃないですか。そうすると、自分の映画作りに対するスタンスが崩れてしまいそうだなと思って。で、何が言いたいかと言うと、僕はもともと、映画がやりたかった訳です(笑)。
— コマーシャルフィルムの仕事をしても、映画をやりたいという気持ちに変わりは無かった?
柿本:いや。僕はもう何百本とミュージックビデオを撮ってきたし、TV—CMもたくさん撮っている。そういった中で、先程の歯車の一部の話とは少し異なる発言なのですが、ぶっちゃけてしまうと、日本のコマーシャルフィルムの仕事ってある程度ギャランティーもしっかりしているし、ステータスもあるんですよ。海外だと状況が違うところもあるとは思いますが、日本のコマーシャルフィルムのディレクター、特にフリーランスだと、それは誰でもできる訳じゃない。作品によっては監督の個性を出すことも出来るし、求められます。媒体もインターネットのおかげで、ものすごく広がって、表現の幅も増えた。単に商品をPRするっていう行為ではなくなって、社会そのものをどうやって動かしていくかっていう血液のようなものになってきた。そうなってくると、もう「必ずしも映画である必要はないのかな」って思ったりもしますよね。
しかも、肝心の映画がさっき話したような状況な訳じゃないですか。僕も数年に一本のバランスで映画を撮りますけど、日本の映画の状況はどんどん商業ベースに偏ってきています。それが悪いとは言わないけれど、商業的でエンターテインメント性ばかりの作品が増えて、シネコン(シネマコンプレックス)が広がって、大きなお金の流れが出来ている。一概には言えないけど、資本が大きいものとか、コマーシャリズムに優れたものを優先して売っていく時代になると、表現に重きを置いた映画は、どんどん廃れていくんですよね。それに比べて、現代アートの世界って一般には全然知られていなくてもいくつかの大きなマーケットがあって、お金持ちの人のステータスを満たすためだけに、一見なんでもないような作品に何十億円って値が付いたりします。ある意味では「それで良い」んだけど、ある意味では「それに本当にそんな価値があるの?」みたいなところもある。まぁそういうアンチテーゼな意見も含めて認められるのがアートの世界なんだけど、実はみかけではなく本質を見ているのがアートだったりもする。映画で今それと同じような表現をやっても認められることは難しいっていう。そういう意味では市場的に映画ってすごく微妙なものになっていて、作り手がやりたいことだけをやってたら生きていけないし、商業的にならざるを得ないんですよね。そういう根本的なことをずっと考えていました。
— そして、それがtheatre tokyoの立ち上げに繋がった?
柿本:さっき話したように僕は「映画で儲けない」という考えに至ってるんですけど、儲けるってことは=沢山の人に見てもらうということでもありますよね。それは一概に悪いとは言えない。でもその前にまずは何故作るかなんです。そこを考えつくした上で、どうしたら、より多くの人に見てもらえるのかっていうことを考えました。そのときに、社会の仕組みについて考えたんです。面倒なことは抜きにして、1回スタートラインに立ち戻ってみようと。例えば、僕は何かを撮りたくて、それを作りたくて、だからこそ、ここに居るのです。その作品をもって大金もちになることが一番の目的ではありません。僕の場合は、自分から生まれた作品をより多くの人に見てもらうことを一番に考えるべきだった。つまり、お金を稼ぐことは二の次ですよね。ストリートミュージシャンが何故ストリートで演奏するかというと、自分の音楽を聴いてほしいからですよね。そして、その行為に対して、心が通ったときに、お金をギターケースに入れてもらえる。それがプロになって音楽で生活をするというフェーズに上がり、メジャーに行って武道館でライブをすると、今度は、心が通じ合うライブという行為の収益は全部スタッフと事務所に持って行かれる。ストリートでやっていた時は少なくてもライブをやれば直にお金が入ってきたのに、メジャーになった途端、ライブはCDを売るための宣伝行為で、そこにお客さんがたくさん入ってもミュージシャンにはほとんどお金が入ってこない。これがプロになって音楽で生活をするということなのか。そもそもこういう状況、システムがおかし過ぎるだろと。ただ、だからといって冷静に考えてそれを変えることは難しい訳です。
例えば、ニューヨークのアメリカ自然史博物館やメトロポリタン、時間帯よってはMOMAやホイットニー、グッゲンハイムなんかはその辺り、非常に良くできていて、入場料は15セントで良いと。15セントで観られるうえに、そこにはもう狂ったようにエンターテインメントが溢れていて、1日中いても飽きない。中には無料なところだってある。ただ入り口にはしっかりと「本当は20ドル欲しいんですけどね」と書いてあるんです。そうすると、それだけエンターテインメント性のある場所だから、良識のある大人はちゃんと20ドル払うんですよ。子供や学生たちも、あのアートに触れたいから、お金は無いけれど出来る限りの料金を払って入る。“お金”という線引きでは無くて、”まずは見てもらう”ってことが一番。その次に「今後も運営していくために、出来れば20ドル頂けませんか」って流れがすごく美しいなと思ったんです。だから、儲けるために映画を作るのではなく、作った作品をまずは観てもらおうと考えて作ったのが、このweb上の映画館、theatre tokyoなんです。
— 発表の場所にwebを選んだのは何か理由があったのでしょうか?
柿本:元々はどこか公共のトンネルとかで勝手に上映をして、帽子を回してお金をもらうとか、それぐらいで良いかなって思ってたんですよ。でも今webはすごく幅広い層に浸透しているし、まずはそこで無料で観てもらう環境を作るのもありかなと。あくまでもそれがゴールではなく、第1歩として、まずは0円で観てもらう。で、良かったらお金を払って観てもらうっていう、そういう環境。もう1つは、僕は映画を20歳の時に作って、今ようやく30歳になった。10年という月日が流れました。20歳の時に考えていた10年後の未来の世界はもっとグローバルなもので、いろいろな人種の人々が東京に集まり、入り乱れてクリエイティブなことをやっているのかと想像していました。でも実際に今こうして30歳になってみると、10年前よりもっとドメスティックな世界になっているような気がします。”日本の中で売れるモノ”がもてはやされていて、それをそのまま海外に持って行っても、いまいち反応されない、世界の中で孤立化してる。モノが売れなくなった市場という意味ではその縮小化はどんどん進み、映画館も軒並み消え去っていっています。そういう意味で、web上に映画館を作れば、田舎のビデオ屋でジム・ジャームッシュを借りてる少年でも、田舎のどこの映画館でもやっていない”パリで旅しているだけの男の話”(UGLYのような映画)を観られるようになるのかなって。なんか、そういうのがあっても良いじゃないですか。それでこのtheatre tokyoってものが出来たんです。
— こういった発表の場があることはクリエイターの方にとっても嬉しいことかもしれませんね。
柿本:僕が撮った『UGLY』という映画があって、それを上映するためにtheatre tokyoを作ったっていう側面もあるんですよ。僕みたいに思っている人って、たくさんいるはずだと思うんです。作品を作ったけれど、出すところが無いっていう。そういう人たちがたくさんいるのであれば、どんどん発表していく場所が出来るってことは素晴らしいことですよね。でも、誰もやっていないし、やろうとしない。なぜかってお金にならないからですよ。
— theatre tokyoは昨年6月にオープンしましたが、オープンから半年が経ち、反応としては予想通りですか?
柿本:まぁ、色々と勉強にはなりますよね。うまくいかない部分も多いし。ただやろうとしている行為自体に誰も嫌悪感は抱かない。みんなから「良いことをやってくれてるね」っていう反応がある。ただ、これが今時代に求められているのかっていうとそんな感じはしないですよ。けど、表現者として、なんかこういう場所があったら良いような気がして。やっていることの本質は、きっと間違っていないんじゃないかな。エンドユーザーへの導線だったり、そういう立体的なデザインの部分はまだまだ改善の余地があるとは思いますけどね。
つまり、theatre tokyoの状況は今のこの世の中において、今の世の中の土俵の上ではうまくいってないということもあります。世の中のベーシックな流れとは全く逆のことを提案しているわけですから。いまの世の中はお金、利権が中心となって廻っているのは311以降、この日本では特に、大勢の人が気づいてしまっている。人の生活も、環境汚染も、健康被害も、命もすべて、二の次なんです。そんなにもおかしな世の中なのです。みんなもう、気付いたはずです。だけど、変わらない。変われない。今の生活の何かにしがみついて、何かを大事に思っている。でも、それは本当に大事なことなのか。気付いてるけど、変化を恐れている。でもどこかで、大きく変化することも望んでいる。それは一人ではダメなんです。みんなと一緒じゃなければ。人ってそんなものです。だからアートが必要で、アーティストが必要なんです。
アートというのは常に、時代の流れとは別の価値観を提案し表現していくことでもあります。今の世の中の持つ土俵の上ではうまくいかない。だったら違う土俵をつくればいい。で、つくっていく。このtheatre tokyo自体が一つの作品です。そして、このtheatre tokyoという土俵はもちろん画期的なシステムになっていて、それは、もちろんアーティストに開かれた土俵です。お金にも左右されない、自由な表現が求められる土俵です。うまくいくもいかないも、そもそも、そんなことすら初めからないってことに今更ながら気付きました。
— 普段の仕事でも、そのように土俵の違いを考えながらやっているんですか?
柿本:今でもたまにクライアントの方とケンカしたり、揉めたりすることもありますけど、「人のお金でそれ言っても仕方ないじゃん」って部分がある。だったらそういうのは自分の作品でやろう、っていう。ただ、相手側が僕のテイストを求めてくれている場合もあるから、そういうクリエイティビティーが同じ方向を向いている時は、やっぱり”作品”と呼べるものになっていますよ。ただ、毎回毎回そこで頑張らないようにしていますね。
そして、幸運なことに他の方と比べたら、僕は自由に作らせてもらっている作品が多いのかもしれないです。それを見て、みんながどう思うかは分からないですけど。やっぱり映像ってそれぞれ目的が違って、例えば僕の関わったコカ・コーラやトヨタのコマーシャルフィルムみたいに沢山の人を喜ばせる目的で作る作品もあれば、社会に対して何かを訴えたいから作る作品もある。同時に単純に笑わせたい時とか、ストレートにかっこよくいきたい時とか、自分にも色々な出口があります。ただ、真ん中にいるのが僕で、僕が思っていることが中心にある限りは、別に何がどうなっても大丈夫だなとは考えていますけどね。だから大概のことで僕はブレないと思う。
— コマーシャルフィルムも映画もどちらにせよ、柿本さんは楽しそうにお仕事をしていますよね。
柿本:どっちもあるからいいんだと思いますね。バランスがいいっていうか。いろんなものがあって。そういう意味で、コレは僕にとって必要なもの。全部が全部TV-CMになっちゃったら僕はもうどうしたらいいか分かんない。
— 先ほど「そもそも、システムがおかし過ぎる」というような話が会話の中で出ましたが、これが例えば音楽業界だとインターネットの影響もあり、かなりそのシステムのいびつさが表に出てきたようにも思います。映画業界では実際のところ、どうなんでしょうか?
柿本:いや、もう映画の方がすごいくらいですよ。まずシネコンというのが出来て、そこに映画がデジタルで配信されるようになって、便利にはなったと。でも、このシネコンってものが結構厄介で、シネコンを運営している多くの人たちは映画好きでは無いんですよ。これは、シネコンで僕の映画を全国上映したことと、シネコンで上映されるコマーシャルフィルムを制作した経験から分かったことです。彼らは商売人であって、映画を使って商売をするのが仕事。もちろん、全てに当てはまる話ではないし、映画は元々エンターテインメントなものだから、商売をしようとするのは当然なんだけど、そうすると良い作品が世の中に出辛い状況が出来上がるんです。その”良い作品”が金を、つまりは広告宣伝費を持ってれば上映回数もどんどんと増えてヒットするんですが、同じ”良い作品”でも金を持っていないと、内容がどんなに良くても朝7時の回に回されてしまう。「誰が観るんですか、それ」って話ですよ。もちろん、ビックバジェットの作品でも素晴らしい作品はたくさんあります。ですが、ローバジェットの作品にはもはやそのシステムは向いていません。その差が最近はすごく大きくなっています。まぁ、映画って元々そうなんですけど、あまりにも平等では無い感じがするんですよね。予算が数億円のものも、数百万円のものも、同じレールの上に乗っているから、弱者にはハードルが高い。だから、良いのかもしれないけど、時代の流れの中で段々と淘汰されていくんだろうと思いますね。だったらもう「”映画”じゃなくて、別の名前に変えちゃえば良いじゃん」って思うんですよ。
— どういうことですか?
柿本:”映画”っていう言葉を使うと、今はそこしか無いからそのフィールドでやっている。僕らが小学生だった頃から比べたら、どれだけメディアが増えて、見なきゃいけないものが多くなったと思いますか? 家に帰ったらインターネット見なきゃいけないし、テレビも見なきゃいけないし、AKBの特典映像だって見なきゃいけない。もう、世の中見なきゃいけないものだらけですよ。昔はデートって言えば「まぁ、映画館でも行くか!」ラーメン屋といえば「あそこしかないよね!」って感じだったのに、今は行かなきゃいけないところ、見なきゃいけないものばかり。そりゃあ、普通に考えて、難しくて頭抱えながら考えて観なきゃいけない”映画”なんて観ないですよね、若者は。
まずはそこからデザインしていかないと。それをデザインするためには、ただ映像を流しているだけではダメで、ラジオだったり、こういった連載だったり、立体のイベントがあって、色々な方向から少しずつ、発信していかなきゃならない。それに何かを感じた人が「アレ良いよね」って話をして、「theatre tokyo? へぇー。」って知ってもらうとか、そういう風にtheatre tokyoで映画を観るというのがどういうことなのか、1つ1つリアルに体感出来るような仕掛けをしていかないと未来は無いなと思っています。
そして、この連載“シアター芸術概論綱要(シアターゲイジュツガイロンコウヨウ)”が始まります。これは宮沢賢治の農民芸術概論綱要からの引用です。賢治の詩にはこうあります。
“われらに要るものは 銀河を包む 透明な意志 巨きな力と 熱である”
賢治の言うように、もうそろそろ,僕らは目に見えているモノや形に、支配されることから、脱却しなければなりません。いつまでも、お金や見せかけだけのステータスを追いかけても仕方がありません。利権や、間違った情報に振り回される事から卒業しなければなりません。考え、思考し、創作する事に純粋に向かい合わなければいけません。つまらない、理屈や、プロセスにとらわれずに、感覚的に、溢れ出るものの蓋を閉めることなく、ダンスを踊るように生きなければなりません。
そう思ったとき、ふと、自分の周りにいる、いくつになっても輝きつづけるアウトロー達の顔をふと頭に浮かべました。理屈やプロセスにとらわれず、生きることをクリエイティブしている、彼らに焦点をあて、彼らの生きることについての軌跡をここに記します。生きることをクリエイティブすることこそ、アートであり、アーティストです。そのアーティストが常に新しい価値観を生み、時代を全く新しい未来へと導いていきます。
このシアター芸術概論綱要という連載が僕よりも若い世代にとってのバイブルとなって心に焼き付けられて、“なぜ人って生きてるんだろう”っていう不安から一瞬で目を覚ましてくれるぶっ飛んだ薬みたいな調べとなるように願いを込めて、永久に継続していきます。一見、狂ったように聞こえるかもしれないけど、今の時代において一番まともな話、まっすぐな話をここではしていきたいと思っています。
theatre tokyoは、デジタルの世界に建設された映画館です。自由を求め、従来のカタチを捨て、東京から世界へ新しい映像文化を発信するため、また、本当の意味での自由を追求する表現者のためにつくられました。そこで上映されるのは、国内外にいる様々なトップクリエイターやアーティストたちによって厳選された、後世に繋いでいくべき映画や映像作品たち。あなたはいつもの映画館と同じように、作品を観るために席を選び、上映時間に合わせ劇場へお越しください。いつでも視聴可能な映像配信サービスではありません。theatre tokyoが守りたいのは自由な表現者達、紡いでいきたいのはその価値観です。是非、私達を含めた自由を追い求める表現者達の明日への創造にご期待ください。(URL : https://www.theatre-tokyo.com/)