対談:田中宗一郎(the sign magazine) × 西村浩平(DIGAWEL)

by Mastered編集部

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音楽しろ何にしろ、アートが生まれる瞬間って、作家が作った時じゃないんです。音楽ならリスナーが聴いた瞬間に音楽が生まれる。洋服でもそれは同じだと思います。

西村:『THE CHUMS OF CHANCE』のファーストシーズンでは『PEANUTS』を取り上げているんですが、これもタナソーさんから話を聞いて『PEANUTS』の本当の意味みたいなものに共感出来たから題材にすることに決めたんです。

田中:とにかく『PEANUTS』が大好きなんですよ。ローティーンの頃にいくつかのアメリカのポップカルチャーに出会ったんだけど、僕は1963年生まれで67年のサマー・オブ・ラブと68年の五月革命に乗り遅れた世代。要は、現代社会の価値観が変わった時代にギリギリ乗り遅れた世代なわけです。なおかつ、高度経済成長期に育っているので、あらゆるアメリカ的な文化に憧れました。その中にもメインストリームとなったカルチャーと、それに対するカウンターカルチャーがある。で、68年、69年という激動の時代にアメリカの学生たちが「こいつを大統領にしよう」と半ば冗談、半ば本気で考えて、缶バッジを作ったりしたキャラクターが3人いるんです。『指輪物語』のガンダルフ、『スタートレック』のミスター・スポック、そして『PEANUTS』のスヌーピー。でも、子供の頃は、何故、彼らが選ばれたのか、全然わからない。だから、『スタートレック』をひたすら観て、『指輪物語』と『PEANUTS』をひたすら読んだ。すると、ようやく見えて来るんです。特に『PEANUTS』って漫画はアメリカ社会の縮図なんですよ。

『PEANUTS』は–特に全盛期の60年代から70年代にかけては–チャールズ・シュルツという、ある意味、保守的でもあるアメリカ人が見た激動の時代を批評的に描いた漫画とも言える。で、大人は一切登場しない。子供たちの世界を社会の縮図として描いていて、ヴィジュアル的に可愛い子供たちだから許される、ギリギリのストーリー・ラインが描かれてる。例えば、スヌーピーは日本だと可愛い犬のキャラクターだと思われてるんだけど、実はいろんなステレオタイプを代表させられてるんです。例えば、彼は自分のことを犬だとは思っていない。自分の主人であるチャーリー・ブラウンの名前さえも覚えていない。妄想狂だし、傍若無人。しかも、彼はレイシストなんです。『PEANUTS』の中でスヌーピーとウッドストックは、常に隣の家に暮らしてる猫のことをバカにする。猫にだけは人権を認めないんですよ。で、あまりに彼らの差別的な軽口がすぎると、隣の猫の大きな爪で引っ掻かれて、犬小屋が破壊されたりする。あるいは、二人が悪口を言って笑い転げていると、笑いすぎて、必ず犬小屋から落っこちるっていうストーリー・ラインが用意されてるんですね。

要するに、『PEANUTS』というのは、360度、すべての立場に対して批判的なんです。作品全体として、右に寄る、左に寄るということをせず、すべての立場を許容してる。作家の立場、作家のメッセージはあるにはあるんだけれど、決して「これが正しい」とは言わない。それぞれ違う価値観を持ったキャラクターたちが互いに批判的な言葉を投げ合いながら、常に傷付けあってる。可愛いキャラクターで描かれているから、うまく中和させられてるんだけど、基本的にはそんな世界観なんです。で、それぞれのキャラクターにいろんな立場を演じさせながら、最終的にどうにか共存が出来る社会を描いてるんですね。だから、ある意味、アメリカというコンセプトをきっちりと継承している漫画なんです。自分自身、いまだにアメリカという国家に対して批判的な部分と、アメリカというコンセプトに取り憑かれている部分の両方があって、スヌーピーはそのひとつの象徴なんですね。世代的にどうしてもアメリカの文化に影響を受けた、ある意味、アメリカに文化的に植民地化された。ロックンロール音楽が好きなのもまさにそういうことです。

一般的にどうやら僕は英国のポップ音楽が好きな人って思われがちみたいなんだけど、イギリス人がアメリカのブラックミュージックに憧れる感覚と、占領された国のカルチャーに憧れる感覚ーーどちらも捩れがあって、その捩れが似てるからだと思うんです。そういう意味でからすると、『PEANUTS』はまさしく自分が憧れた”アメリカ”。戦争に負けて、侵略され、軍事力を押さえつけるためにアメリカから押し付けられた憲法9条を大事にしたいと思うのと同じで、侵略され、モディファイされてしまったアイデンティティこそが自分だって感じてるんですよ。1990年代から活動してるスーパー・ファーリー・アニマルズって大好きなバンドがいるんですけど、彼らはウェールズのバンドなんですね。ケルトの末裔であるウェールズという国は歴史上、常に侵略されてきた。で、彼らがウェールズがローマに侵略されたことを曲にしているんです。彼らに「その事実に対して怒りはないのか?」という訊ねたことがあるんだけど、彼らは「もはや僕たちにとってはローマ帝国に侵略されたこと自体が自分たちの文化だし、アイデンティティなんだ」と答えてくれたんですね。自分自身にあてはめてみても、まさしくそうなんですよ。

当然、古来の日本文化に繋がりたいという気持ちはある。でも、もはや自分のアイデンティティは古来の日本のアイデンティティとはまったく別物なんです。で、そんな風にアメリカに取り憑かれてきた人間からすると、世間で流通している『PEANUTS』のキャラクター商品っていうのは、9割が許しがたいものなんですよ(笑)。元々あった文脈から何かを切り取って、そこに新たな文脈を加えるのはクリエイションの基礎だと思う。でも、そうした9割の商品というのは、ただ切り取っただけ。新たなクリエイションなんて微塵も感じないんです。要は、西村くんに、そういう文句をずっと言っていたわけです(笑)。

西村:じゃあ、納得のいくものを作ろうか、と。今回の『THE CHUMS OF CHANCE』のプリントは基本的に2人で決めているんだけど、背中とか前とか色々な部分に文章を入れています。インターネットで検索すればすぐに分かることなんだけど、それらの文章は全て引用なんです。買ってくれた人がインターネットで意味を調べて、そこからまた新たな世界が広がってくれたら嬉しいなと思って。

田中:音楽でも映画でもファッションでも作り手はメッセージを伝えたいわけじゃないんですよ。でも、メッセージがないとモノは出来ない。だから、100%メッセージを受け取って欲しいって思いはまったくないんですよ。実際、Google先生の頭を2、3発叩けば、その引用が瞬時にわかってしまう程度の薄っぺらいことしかやっていないんです。ただ、音楽しろ何にしろ、アートが生まれる瞬間って、作家が作った時じゃないんです。音楽ならリスナーが聴いた瞬間に音楽が生まれる。洋服でもそれは同じだと思います。『THE CHUMS OF CHANCE』はただのモノ。それが生まれるに至った因果律なんて、正直どうでもいいんです。作家の意図なんて、受け手の解釈に比べれば、そんなに大したものじゃない。最終的に何かを作り出すのは受け手なんですよ。

西村:全然話は変わりますけど、この間、EYESCREAM.JPに掲載されてた『ヤンキー服専門ショップ』。あれ、最高ですね。あれだって間違いなくファッションだし、何が一番大事かって記事の最後にも書いてあったけど、クオリティが高いってことなんですよね。格好良いとか、格好悪いじゃなくて、アイディアとしてのクオリティが存在していること。

田中:服が格好良いか、格好悪いかなんて、結局はテイストの問題だからね。そんなことはどうでもよくて、自分は着ないかもしれないけど、これは最高だ!ってものなんていくらでもある。テーマとか、メッセージもそうだし、それこそテイストもそうなんだけど、そういうのって実は二の次なんですよね。一番大事なのは、それが目を惹くか、新しいか、確立されているかってことであって、良い悪い、好き嫌い、合う合わないはホントどうでもいいんですよね。

西村:おっしゃる通り。まさかヤンキー服のサイトがあんなに心に引っ掛かるとは思ってもみなかったけど、僕はあれが批評だと思うんですよ。普通のファッションメディアでは取り上げられることはないし、取り上げる気もないろうけど。

— まあ、少なく見積もってもZOZOTOWNを眺めているより2,000倍くらいは面白いですからね。

田中:音楽の世界も同じですよ。ジャンルやテイストで分けられているし、リスナーもジャンルやテイストで聴く。でも、それぞれのジャンル、テイストですごいものは必ずあって、僕はそれぞれのテイストで一番すごいものを聴きたい。もちろん、その中で自分が大好きなモノっていうのもあるにはあるんだけど、正直、自分に合うか合わないかはどうでもいい。

— ある程度の距離があった方が眺めやすいっていうのはあるのかもしれないですね。日本の音楽よりもアメリカの音楽の方が見やすいし、近いものほど見えにくい。

田中:シーンの内側にいないと、そこにアクセスしちゃいけないっていう問題もあるにはあって、それも一理ある。でも、対象に距離を置いたままでも、それを認めて、並列している状態の方が、テイスト自慢に終始したり、テイストごとに分断されて、互いに無視しあってる状態よりは、健康的でエキサイティングですよね。あ、でも、音楽よりもファッションの方がいいなって思うことがひとつあって。僕、タワーレコードとか、ホントに行きたくないんですね。何故かというと、自分がゴミだと思ってるようなCDが入り口にバンバン展開されていて、それの1万倍は素晴らしい、クオリティが高いと思っている作品がお店の端っこに1、2枚置かれたりしてるわけですよ。これって、なんか侮辱されているような気分になるんですよ。ファッションの世界に置き換えると、ユニクロのデカい店舗の中で、[SAINT LAURENT]とか、[Maison Martin Margiela]の洋服がお店の端っこの方に陳列されてる感じ。しかも、同じ値段で(笑)。あり得ないじゃないですか。もちろん、原宿のBIG LOVEみたいな自分たちが本当にレコメンドするモノしか売らないお店も稀にありますけど。その点、ファッションの世界では、キュレーションに対するプライドを持ったセレクトショップというのがいくつもある。

西村:たしかにそういった意味では洋服屋さんは健全ですね。

田中:しかも、良いモノが高い値段で売れるでしょ? CDなんて全部値段は同じだから。1960~70年代の本当に作るのにお金と手間と技術とアイデアがかかっている素晴らしいレコードが、CDにパッケージされてるからって300円で売られている時代ですよ。で、一方では、日本のアイドルのゴミみたいな音源が3,000円で売られている。もちろん、敷居が低いっていうのはいいことだけど、そこにそれだけの価値しかないと思われるのは困る。だから、中古レコードが3,000円とか4,000円とかで売られてるのを高いとか言う人がいるけど、「うるさい!」って思うよね(笑)。クリエイターをサポートするとかじゃなくてさ、単純にいいモノにはそれなりの対価を払いたいじゃん。じゃないと、「うわ、こんなに凄いのに、こんなに安いんだ?!」とも思えなくなっちゃう。と、またおっさんの愚痴が延々と続きそうなので、この辺で。

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