週刊『俺とエアマックス』 第1号 – AIR MAX 95 –

by Mastered編集部

[NIKE(ナイキ)]の生み出した数々の伝説的シューズの中でも、とりわけ僕らの心の中に強く残っている名作中の名作『NIKE AIR MAX 95』。デザイナー、セルジオ・ロザーノが人の背骨や肋骨、アキレス腱などからインスピレーションを得て開発したと言われるこの1足が、本年で遂に生誕20周年を迎える。

加えて忘れてはならないのは、今月末、3月26日(木)はエアマックスの誕生日(Air Max Day)でもあるという事実だ。そこでEYESCREAM.JPでは、この記念すべき2つの事実を盛大に祝うべく、1ヶ月限定マガジン、週刊『俺とエアマックス』をここに創刊。3月26日まで、全4回に渡って、歴代のエアマックスシリーズより毎週1足をチョイスし、その魅力を再定義していく。

栄えある第1回を飾るのはもちろん、『NIKE AIR MAX 95』。

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俺とエアマックス – AIR MAX 95編 –

NIKE AIR MAX 95 OG

NIKE AIR MAX 95 OG

1995年。今から20年前の夏に、この斬新なシューズは発売された。そうそれは、本当に斬新以外の何物でもなかった。
僕がこのエアマックスの存在を知ったのは、その年のはじめごろ。丁度ディーラー向けの展示会が終わった直後だった。当時よく入り浸っていたスニーカーショップに、ほかのショップで店員をやっていた友人が、興奮した様子でカタログのカラーコピーを持ってきたのだ。「ヤバいスニーカーが出る。」確かに彼はそう言った。

その頃の時代背景を軽く説明しておくと、’90年代に入って沸き起こったストリートファッションブームが、’90年代半ばに差し掛かり、より勢いを増そうとしていた時期である。
’80年代後半のアメカジブームに端を発し、ファッション誌やデザイナーズブランドの誘導とはまったく無関係に、ストリートの若者たちの間でのローカルな流行から、波紋をひろげていったストリートファッション。それはヴィンテージの古着やスニーカーといった、それまでの価値観とはまったく異なるマニアックなトレンドを生み出し、入手が難しく希少価値の高いものを身につけることが、何よりもステイタスとなっていた。

1995年当時、もっとも人気があったスニーカーは、’70〜80年代のヴィンテージモデルだった。特にエアジョーダンのファーストやナイキ ダンクといったいわゆるバッシュの人気は凄まじく、たとえ中古品であっても10万円以上のプライスがつけられていた。一方最新のスニーカーはというと、当時日本で発売されていなかったACGの一部モデルなどは人気があったが、それでもプレミア化するほどではなかった。多くのマニアの視線は、相変わらずヴィンテージ品に注がれていたのだ。
そんなヴィンテージマニアだった僕らに衝撃を与え、まったく新しい価値観を突きつけたのが、1995年秋冬モデルとして発表された、最新のエアマックスだった。

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まず僕らが釘付けになったのは、サイドのモノトーングラデーションと鮮やかなイエローの差し色。印刷の滲んだカラーコピーではその素材感などわかるはずもなく、これは塗装なのか?それとも生地の切り替えなのか?と憶測を重ねた。

ソールも印象的だった。ランニンングシューズとしてはきわめて珍しいブラックソール。当時はランニングシューズといえば白を基調とした配色のものが一般的であり、特にミッドソールに関してはほぼ例外なく白かった。その白さこそがスポーティーであることの象徴でもあり、ミッドソールまで黒いランニングシューズなんて、考えられなかったのだ。

そしてフォアフット(前足部)には、どう見てもエア窓があるように見えた。それまでの歴代エアマックスもフォアフットにエアを搭載していたが、ビジブルになっていたのはヒール(かかと部分)だけ。頭のどこかでビジブルエアはヒールにあるものと決めつけていた僕らにとって、フォアフットもビジブルエアになっていたことは、本当に衝撃的だった。

実はソールが黒いエアマックスというのは、以前にも存在していた。僕も当時珍しいと思って購入したことがあるのだが、それらはフットロッカーなど海外のショップの別注品やリミテッドモデルで、オールレザーアッパーのファション性を重視したもの。純粋なランニングシューズというわけではなかったし、ここ日本では簡単に手に入るものでもなかった。
しかしこの新しいエアマックスは紛うことなきカタログ掲載のスタンダードモデル。それも日本で正規に販売されるという。

僕らはその発売を心待ちにした。そしてきっと人気が出るだろう、それも予想していた。でもまさか、あんな大騒ぎになるとは……。

そして夏がきた。エアマックス(当時はまだ95なんて呼び名はなかった)が発売されると、僕らの間でも何人かがすぐに手に入れ、RRLやステューシーのショーツに合わせて履きこなしていた。最初はその斬新すぎるデザインが洋服に合うのか疑問だったが、それは杞憂に過ぎず、意外とどんな洋服でも、ヴィンテージジーンズでも軍パンでも、新鮮な印象で合わせられるようだった。しかし僕にとって大誤算があった。スタンダードないわゆるインラインモデルだからいつでも買えると思っていたエアマックスが、どこにも売ってないのだ。

これは後からわかったことだが、当時このエアマックスは、業界内では失敗作とされていた。あまりにも斬新すぎるルックス。軽快なランニングのイメージとは程遠い、重厚感あふれるカラーリング。当時のディーラー、つまりスポーツショップのバイヤーは、このスニーカーの素晴らしさを、まったく理解することが出来なかった。だから発注数も最低限にとどまり、店頭在庫はごく僅かに過ぎなかったのだ。

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発売から2〜3ヶ月が過ぎ、僕がようやくロスアンジェルスでエアマックスを手に入れたころ、日本では大騒ぎになりはじめていた。インターネットが無に等しかったあの頃。口コミで広まったエアマックスの存在は、ストリートファッション誌で大きく紹介されるに至り、ほとんど壊滅状態の流通在庫を求めて、日本中から問い合わせが殺到していた。

「エアマックス95」。雑誌でそう名付けられたグラデーションカラーのエアマックスは、発売から半年も経っていないにも関わらず、幻のスニーカーと化していた。

1996年初頭にはデザインを一新した新しいエアマックスが登場したが、この通称エアマックス96の評価が芳しくなかったこともあって、エアマックス95の枯渇化、プレミア化に拍車をかける事態となる。

エアマックス95各色の人気が絶頂を迎えたころ、入手を諦めた人々はほかのエアソール搭載モデルへと流れ、エアと名が付くものであれば、ありとあらゆるモデルがプレミアの対象となった。テレビや雑誌ではこの降って湧いたようなスニーカーブームを大きく取り上げ、それまでファッションに興味がなかった一般の人々も巻き込んで、大きな社会現象となっていく。そしてそのブームは、いつしかハイテクスニーカーブームと呼ばれるようになっていた。

多くの人を虜にし、夢中にさせたエアマックス95。あれから20年。エアマックス95の登場以前と以後では、スニーカーシーンは大きく変わったといえるだろう。アンテナを張り巡らし、新しいスニーカーの発売を待ち望み、誰よりも早く手に入れて、大切に履く。そんなスニーカーギーク的な価値観を創出したのは、エアマックス95とそれを取り巻く一連のスニーカーブームだった。20年たっても色褪せないその存在感は、今もスニーカーシーンに強い影響を与え続けている。

Text:Takatoshi Akutagawa
Edit:Keita Miki

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