2人の写真家“鈴木親×笠井爾示”のスペシャルトークセッション

by Mastered編集部

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フィルム撮影で分泌されるドーパミンと発見

トークイベント終了後、共通の友人たちと盛り上がるWちかし

トークイベント終了後、共通の友人たちと盛り上がるWちかし

—逆にめちゃくちゃ良かったりすると…。

笠井:むっちゃ上がりますね。要はポジでやっている頃って、これはこうしとけば失敗しないっていう自分だけの覚え書きがあるじゃない? それはちゃんと毎回やっとく訳。でも、たまに不安な時ってね。

鈴木:ありますね。例えば増感が失敗してたらまったく写ってないとかは、結構多いですよ。だから、絵を描くとか、芸術作品を作るような何か自己表現する、所謂お金にならない表現をする時に、不安感を感じたり、自分が不幸だと思う人とかは、ドーパミンが出るんです。ドーパミンが出ると、そうやって外に向かって色々やる。で、それが自分の表現、自分がここにいることを説明するための反応らしいんですよね。だから、不安感が強いとドーパミンがぶわっと出る。そうすると、テンションが上がって、次に何かやるときに良い方向に行ったりするんですよね。もしかすると、デジでその場で確認すると安心感だけでドーパミンも出ずに…。

笠井:それについて、もうちょっと違う側面から言うと、基本的に写真っていうのは、探すことと確認することの繰り返しなんですよ。フィルムの時っていうのは発見する機会が1枚の写真が出来上がるまでに色々ある。撮影する時に発見する、現像してあがってきた時に発見するっていうステップを踏んで、最終的な仕上がりに持って行く。デジタルだとそれができないじゃないですか。撮って確認すれば、それが予定調和のように確認できるというか。フィルムの良い所っていうのは、そういう発見ができる所だよね。

鈴木:そういう発見を圧倒的に分かり易く作品に昇華しているのが、ライアン・マッギンレー(アメリカ出身のフォトグラファー)ですね。彼が上手くいった理由は、そのフィルムの失敗の要素を意図的に入れつつ、ヌードという普遍的な要素を取り入れている。そうすると、写真を買いたいっていう要素がすごく内包されてますよね。デジタルだといくらでもコピーできるけど、フィルムっていうのは限界っていうのもあるし、触感も残る。フィルムで撮ったのか、デジタルで撮ったのかっていうのが、感光の具合の偶然が入るとかではっきり分かると思うんです。ライアンはフィルムの失敗の部分を意図的に入れてる。あと、タングステンのフィルムっていって、今はもう作られてないフィルムっていうのがあるんですけど、赤い光を消すためにフィルム自体に青みがあるんです。今は必要ないからあまり使われてないんですけど、そのフィルムで適当に撮ったものが想像できないくらいに綺麗だったりするので、僕はわざとそういうフィルムを使ったり、昔のフィルムを使ったりします。今だったら、デジが主流の中、フィルムの昔のカメラとか、もう使われないツールを使えば新しい方法って実はたくさんあったりするんですよね。だから、変な話、ポジで撮るだけでもすごく違和感をすごく良い感じに仕立てられるかもしれない。こうヌメっとしてるというか。

笠井:そう。ポジはすごい湿り気があるの。おれ結構そこが重要だと思う。ネガだとこう乾いちゃったりするから。

—さっきのコピーの話で言えば、同じような写真を撮るとかはすごい技術が必要になってきますよね。ライアンいいなと思ってライアンに自分の作風を寄せて行くとしても…。

鈴木:ライアンが良いと思ったら、何でライアンが良いと思ったのか考えて、違う方法を見つけるというのは良いと思うんですよね。笠井さんの様な写真の要素を出す狙いでポジを使う。でも、なんでポジを使っているのか、ポジは、女性のセクシーな感じも必ず出るんですよ。僕がここに出してる染谷将太くんの写真(『EYESCREAM12月号(2013年)』掲載)もポジで撮ってるんですけど、ネガで同じように撮っても、その同じ感じは出ないんです。だから、そういう理由をしっかり考えないといけない。ただ単にスタイルを真似すると、世界的に認められるようなことは絶対にない。だから、しっかり理由を考える人は成長する。意外とカメラマンで色んな写真を知らないって多いんだけど、実際僕とか笠井さんもすごく詳しいし、そういう詳しいっていうことが似ない要素になってくる。意識的に写真に精通してる人は、自分の作品が他の人のものと似ちゃったら恥ずかしいと思うから、そういう要素を取り除くんです。でも、なんとなく見てる人は、ファインダーを覗いた時に今までに自分が見てきたものと似た表情を探すんですよ。なんとなく1回見たものはすごく安心感があるから、無意識にそれを選んじゃうんです。こういうフォトグラファーというフィニッシュの仕事の場合は、必ず意識的に物を見ないといけない。

笠井:俺ね、結構人の写真に簡単に影響を受けるよ。facebookのタイムラインに友達があげた写真が載ってて、めっちゃ良いなと思ったり。すごく感受性が強いというか、もしかしたら自分のフィルターに置き換えてるのかもしれないけど。その入り口の部分はたくさん影響を受ける。

鈴木:良い写真の要素に、無意識に撮れてる家族写真みたいなのが究極に良いっていうのは、外国人のフォトグラファーがよく言うことですよね。逆に、篠山さんや荒木さん、テリー・リチャードソン(アメリカ出身のフォトグラファー)もそうですけど、結構自分自身が前に出てくる人っているじゃないですか? 自分が出るっていうのは、撮影される人に対して有名人が来たっていうのを思わせてるんですよ。その現場を自分の世界にするような感じで。でも、僕とか笠井さんはあんまり前に出ないじゃないですか、その場合、撮影される人が無意識になりやすいというか。例えば一般の人を撮る時に、自分が前に出ていると“あ、この人有名な人だ”っていう風に撮影される時に意識的になっちゃうから、意識的な態度と無意識的な態度のどっちを選ぶかというのはすごく難しい所なんです。

—さっきの話で言うと、自分の撮りたい写真を撮ろうとしている中で、どれだけ自分の考えを意識しているのか、どれだけコントロールしたいのか、あるいは出会いのように何かを見つける過程で撮るのか。

笠井:俺は結構両方かな。全部コントロールしたいとかっていうのはない。これは1つの考え方なんだけど、絵は自分の体の中から表現するけど、写真っていうのは、対象があるから写真が成立する訳であって、対象自体を支配することはできない。結構、俺ね、自分の写真を自分の物だと思ってないんだよね。どっちかと言うと、対象との間にある関係性を結びつけるツールみたいな所があって。でも、最終的に自分の作品として出すから“笠井爾示”の名前を付けるんだけどね。自分の普段の写真との向き合い方としては、写真は俺の側にあるというよりも、対象との間にあるものと考えてるんです。勿論写真は表現の手段だから、そういう意味においては、ある程度自分のスタイルとか好みとか性癖というものを反映させたいと思ってる分、そういう意味ではコントロールしてるのかもしれないけど。全部が全部コントロールした所で、結局撮ったものは俺がいたから撮れたんじゃなくて、誰かがいたから撮れたとか、何かそこにあったから撮れたとか。そういう意味では、空間をコントロールするとか、空間論よりも被写体との関係性と距離感を大切にしたい。

鈴木:僕が決定的にフォトグラファーの人を微妙なカメラマンなのか、良いカメラマンなのかを認識する時に見るのが、被写体とその間になにかある——対象物とカメラの間にある空間を考える人と対象物しか見てない人の差——っていうのはすごく大きくて。ちゃんとその場を切り取ってる人はそういう風に考えてると思うんです。何もないと考えて、ただ焦点を合わせて撮ってる人っていうのは、雑な写真というか…。

笠井:その関係を感じるのには、対象物をただ見てるのだとダメだし、距離感だよね。

鈴木:さっきの話で言えば、その距離感を作るということで、荒木さんだったら“アラーキー”っていう距離感があるし、テリー・リチャードソンだったら、“テリー”のように自分が前に出るというのがありますよね。例えば、僕が有名な人を撮る時には、その人の有名な部分、パブリック・イメージが出る前に、できるだけ最初の時間で撮り終える。

—笠井さんも結構撮り終えるの早いですよね。

笠井:早いね。だって、テンション下がっちゃうし。

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