80年代半ばまではファッションと音楽って同じぐらい重要だったでしょ。(高木完)
—まず日本のパンクのオリジナル世代である『東京ロッカーズ』に高木さんが興味を持たれて、かかわっていくことになるきっかけはどんなことだったんですか?かなり早い時期だっと思うのですが。
高木:高校2年の時だったんだけど、まだ16歳でしたね。なんの雑誌か忘れましたけど、雑誌の囲み記事で日本のパンク・バンドが集結したイベントがあるって書いてあって、日曜の昼間だったんですよ、行きやすいなと思って。
—それは新宿ロフトの『東京ロッカーズ』ライブ・アルバム収録のイベントですか?
高木:いや、その前のイベントです。78年の5月に六本木のS-KENスタジオのオープニング、後にエコー・スタジオっていうレコーディング・スタジオになった場所でのイベント。日曜の昼間だし、料金も500円とか800円とかでパンク・バンドが7~8バンド出演してましたから高校生でも行きやすかったんですよ。
—『東京ロッカーズ』は、今では伝説のムーブメントですけど実際は小さなコミュニティーだったんですね。
高木:そうだと思います。僕もちょうど一緒に行った友達に紅蜥蜴が最近雰囲気変わってきたよ、とかニューヨークから帰ってきた人たちのバンドも出るらしいって教えられて行きましたから。
—でも高校生としては情報つかむの早いですよね?
高木:それはパンクだったから。僕はパンクについての情報ならなんでも集めてたから、当然行くよね、そんなイベント(笑)。
—当時、77年、78年ぐらいだとパンクの情報はどうやってキャッチしてたんですか?
高木:『ポパイ』、『平凡パンチ』、『音楽専科』それと『ZOO』ほとんど雑誌ですね。ちょうど『ZOO』がプログレからパンク中心になった時期ですよ、それと『ロックマガジン』。
—パンクを聴くようになったのも雑誌の影響ですか?
高木:そう、ロック少年だったからね、最初は75年か76年に『ミュージック・ライフ』で水上はるこさんがニューヨークで新しい動きがあるってラモーンズやテレビジョンを紹介してて。
—ラモーンズは当時国内盤がでてました?
高木:ラモーンズは76年にすぐに国内盤がでてましたよ、中学の時に聴いた。買わなかったけど(笑)、中学生だとお小遣いも限られてたからそう簡単にレコード買えなかったんですよ。
—輸入盤店もまだそんなに多くはなかった時代ですよね?
高木:ラモーンズの日本盤は逗子のレコード店で聴かせてもらった(笑)、高校はお茶の水に通ってたけど中学時代はまだ逗子でしたから。輸入盤は鎌倉に『すみや』っていうレコード屋があってそこに少しあったぐらい。
—0年代後半の高校生が、まだはじまったばかりのパンクのようにマイナーな新しいロックが好きだと周りに話しができる相手がいなかったんじゃないですか?
高木:だから中学ではそういう話しのできる相手はいなかったですね。それで東京の学校に通えばパンク好きな人もいっぱいいるかな、と思って高校は東京の文化学院に行かせてもらいました。
—それで高校生の時にご自分のバンドであるフレッシュを始められたんですか?
高木:フレッシュは東京ロッカーズを見に行くようになって、特にリザードとフリクションにやられて、ミラーズもかっこ良かったけど、よくライブに通っているうちにS-KENに声かけられて『バンドやったら』みたいに言われたのがきっかけで、そこに集まる人達もそういう人ばっかりだったしね。自分もなんかやりたいって思ってる人ばっかりだったね、50人ぐらいの狭いスペースだったし。
—すごく濃密なコミュニティーだったんですね。
高木:みんな大人っぽかったね。僕が一番年下だったし、高校生はいなかったですね。あっ、その前にボルシー*やってた石田くんとセッションしたりしたんだ。
—それは『東京ニュー・ウェイヴ』の頃ですか?
高木:そのもっと前、メンバー募集の紙を原宿プラザとかに貼って(笑)、それをみた石田くんから電話かかってきて。メンバー募集の紙って楽器屋とかスタジオに貼ってあったけど、僕はブティックの方がいいと思って。そっちのほうがパンクっぽいファションにも気を使ってる人がくるかなって思って。
—ボルシーは活動期間の短いバンドでしたね。
高木:ボルシーはかなりアバンギャルドなバンドだったけど見た目はポップだった。でもその時は彼らと一緒にやっていた8 1/2に衝撃受けた。後に『星くず兄弟の伝説』を一緒にやる久保田慎吾とゲルニカやハルメンズをやる上野耕路がいた。
—当時のファッションはどうでした?
高木:当時原宿で一番有名なファッション・パンクスだったアレクサンドル今井っていう今はカメラマンでアーティストの人がいるんだけど、彼が家のテレビを売ってロンドンへ行ったりしてて(笑)。彼がセデショナリーズの服を沢山買って帰ってきて、それを売ってもらったりしてました(笑)。
その当時は僕もお金がないから自分なりに服をアレンジしたりしてましたね。雑誌の写真を見て研究して、靴とかもどこで買っていいかわからなくてね。[DR.MARTENS]も日本では買えなかったんじゃないかな?リザードのメンバーなんかは安全靴はいてた。僕は安全靴じゃなくて登山靴みたいなのはいたり。
77年にアレクサンドル今井に会ったら、向こうのやつも金のないやつはそんな感じだよって言われて、クソーって! 彼の足元はセディショナリーズだったから(笑)
—そういえば僕が高校生の頃、80年代前半もパンクスは安全靴でした。
高木:[DR.MARTENS]が普通に買えるようになったのは80年代からかな。でも高いっていう印象はなかったけど。
—たぶん80年代から90年代前半は為替レートでポンドがとても高かったんじゃないですか?
高木:そうだね、それ以前、S.E.X.やレット・イット・ロックの頃、まだグラム時代、ミカ・バンドがロンドンに行った頃の話し聞くと1ポンドが800円とかだったって言ってたもんなー。
それを考えると赤富士とかは安かったですね。Tシャツが5,800円とか、セデショナリーズのモヘアのセーターが18,000円でしたからね。でも[DR.MARTENS]はなかなか買えなかったね。
—今回の[DR.MARTENS]でフィーチャーされているのがディメンテッド・アー・ゴーというサイコビリー・バンドなんですけど、彼らのデビュー・アルバムが86年ぐらいなんですよ。高木さんがタイニー・パンクスを始められた時期ですよね?
高木:もう始めてるころですね。僕らはラバー・ソウルはいてラップするっていうパンクとヒップ・ホップをミックスした格好してましたね。僕もヒロシもパンクな格好が好きでヒップ・ホップをやる、という感じだったから。
—高木さんに伺いたいんですけど、クラッシュがコンバット・ロックのツアーでニューヨークの前座にグランドマスター・フラッシュを起用したりしたじゃないですか?当時のクラッシュのファンはそれを普通に受け入れてたんですか?
高木:いやー、あれは82~83年ごろでしょう。ワイルド・スタイルやプラネット・ロックと同時期でしょ。僕はワイルド・スタイル以前にはヒップ・ホップのことそんなにわかってなかったからね。だからクラッシュが取り入れてたり、マルコム・マクラーレンがやろうとしてた感覚はまだわかってなかった。日本でもほとんどの人がわかってなかったと思うよ。
ピテカントロプスができる時に中西トシちゃんがニューヨークから帰ってきて、今ニューヨークでは頭でクルクル回るダンスが流行って、なんて話を聞いてなんのことだ?なぐらいだから。まだヒップ・ホップっていう言葉が広まる前だよね。ラップのレコードはシュガーヒル・ギャングやカーティス・ブロウは出てはいたけど。
—僕も後からようやくクラッシュのやりたかったことがわかりましたから。
高木:そうだよね、僕もクラッシュのような気持ちにはなってなかったよね。日本の熱心なファンも相当戸惑ってたと思う、当時。
—そのあと、80年代前半から半ばにかけてシーンが細分化されはじめていくじゃないですか。日本でハード・コアが盛り上がったり、Oiパンクが強くなったり、サイコビリーも86年から88年がちょっとしたピークで、同時に2トーン以降のスカ・バンドが出てきたり、キュアーやバニーメンなどのニュー・ウェーヴが盛り上がったり。いろんなシーンが花開いた時期ですよね。
東京ではツバキハウスのロンドン・ナイトでストレイ・キャッツもクラッシュもトイ・ドールズも一緒にかかってた頃だと思うんですけど。
高木:そうだね、ハード・コアもサイコビリーもその時期熱かったよね。僕は80年代前半、サイコビリーがけっこう好きだったのはクランプスが好きだったからなんですよ。
東京ブラボーの最後のほうはクランプスみたいなことをやりたかったんだけど、というのもちょうどその時期ロンドンかパリでライブ見たんだよね。それがほんと格好よくて、これだ!って思って、あのB級ホラーっぽいかんじでロカビリーな感じが。だからサイコビリーっていうよりクランプスが好きってことなんだけど(笑)。
クランプスって完全に確信犯的にやってるからね、ヴィジュアルも含めた活動全体がアートでしょ、あの精神病院のライブとか。それが良かったんだよね。他のみんなはあまりクランプスにははまってくれなかったな。
—それはみなさん楽器のプレイヤーとして優秀なタイプだったからじゃないですか?
高木:そうそう!僕はもっとシンプルなものをやりたかったんだ。あの頃他にもサイコビリーって言えるかわからないけど、キング・カートとかが好きで。
—キング・カートはサイコビリーですよ。でもメテオズやデメンテッド・アー・ゴーとかのスラップ・ベースでモヒカンみたいな感じじゃなかったですね。もっとコミカルだったりパンクっぽいビートだったり。
高木:当時、東京ブラボーをやめるかやめないの時期に『星くず兄弟の伝説』という映画を撮影していて、映画の中で架空のバンドををやっているんだけどそのバンドが当時やりたかったかんじ。DVD見てもらえるとわかるんですけど。
その時の写真を最近友達がFACEBOOKにアップしたんだけど、ツバキハウスで撮ったやつ。後ろにクランプスのポスターがあるでしょ。
—おー、そうですね。確かにクランプスやキング・カートが好きだと典型的なサイコビリーにはいかないですね。
高木:聴いてはいたんですけど、そんなにはまらなかった。東京ブラボーのみんなはレジロスとかが好きだったんだよね。そこでちょっと方向が違ってたんだね。レジロスってちょっとコミカル過ぎな感じじゃない。
—コミック・パンクの走りですよね。
高木:氣志團の元ネタでもあるよね。
—キング・カートはいまでもやってますよ。
高木:マジで!(笑)。でも確かにこの時期は僕らも[DR.MARTENS]履いてましたね、皮ジャンに[DR.MARTENS]だった。そういう感覚でやりたかった。
—今回コラボレーションしているディメンテッド・アー・ゴーも80年代半ばにデビューして盛り上がるんですけど、90年代後半には一度活動を停止して、また復活していまでも活動してるんですよ。サイコビリーのフェスがいまでも世界各地でやってるんですけど、グァナ・バッツやメテオズ、バッド・モービルなんかはメイン・アクトの常連なんですよ。
高木:面白いね、80年代半ばまではファッションと音楽って同じぐらい重要だったでしょ。
—そうですね。高木さんはいろんな場面を見てきてると思いますが当時の思い出で印象に残っていることはどんなことですか?
高木:僕はいろんなものを好きになっていたから即答するのが難しいんだけど。タイニー・パンクスをはじめる頃に一番びっくりしたのはロンドンに行った時にグリッター・ロックとディスコが混ざってかかってたことかな。DJがスウィートとかをつないでて、その感覚が面白くてね。しばらくしたらエディットでメガ・ミックスするサニー・XっていうDJが出てきて。ちょうどニューヨークではラテン・ラスカルズっていうチームがマドンナとかマイケル・ジャクソンなんかのヒット曲をズタズタにエディットしたり、そいう感覚のサウンドがロンドンではロックを使ってやってたんだよね。ロックをダンス・ミックス、しかもグリッター・ロックとかを。それが一番やられたね。
それにがーんとやられて、それでヒロシとやる時にこういう感じのことを一緒にやらないって誘ってはじめたんだ。もろにヒップ・ホップじゃなくて。ロック的なものをヒップ・ホップの感覚でやりたかったんだ。
—なるほど、いろんな場所でそれぞれに実験的なことが起きてたタイミングなんですね。
高木:そうだね。80年代なかごろはまだクラブ・ミュージックっていう言葉もなかったし。ちょうどニュー・ウェーヴもひと段落して、大きなムーブメントもそんなになかったから。ファンションも音楽もちょうど混沌としはじめて細分化がはじまった時だよね。だからこそチョイスもできたし、大きな流れに身をまかせるんじゃなくて『おまえはどうするんだ』って問われた時期だね。 そこで僕にとって一番衝撃だったのがDJ。
なんでDJがいいかって言うと、影響をうけたのがビリー北村なんですけど、DJって自分がいいと思ったらどんな音楽でも買うって言ってて。そうかー、ってなりましたね。そこがミュージシャンと一番違う部分で。ミュージシャンだとファッションもそうだけど自分の好きなジャンルだけしか追求しないでしょ。DJはどんな音楽でも自分の感覚でチョイスする。その感じは目から鱗でしたね(笑)、それはなかったなーって。DJ凄いなって思いましたね。
例えば僕が高校生のパンクスだった時なんかは、家にカーペンターズのレコードとかあったんですけど、友達が来ると隠したりして。今でこそそういう音楽の聴き方は普通ですけど、当時パンクスがカーペンターズはあり得なかったですから。ビートルズですらありえ無かった。
—それはそうでしたね。
高木:DJはほんとになんでも聴きますからね。それに気がついたのがちょうど84~85年です。それでなんでもOKってことになりましたね。ちょうどその時期に仲良くなったヒロシもそういうタイプだったし。彼はそれこそヒップ・ホップやダンス・ミュージック大好きだけどロカビリーも好きだったし。上の世代の人たちはその時に好きなものしか聴かないけど、ヒロシとかは古いロックとかも聴いてたからね。これはセンスが違うなって思いましたね。自分がいいと思うものはなんでも受け入れるスタイル。
—そうですね、僕も80年代後半から90年代のバレアリックと呼ばれるDJたち、ポール・オークンフォールドやアンディー・ウエザーオールなんかのスタイルが好きなんですけど、彼らも80年代のインディー・ロックやアシッド・ハウス、イタロ・ハウスなんかをごっちゃにしてプレイしてましたから。
高木:その感じなんですよ、わかるなー。一緒ですよ、僕も80年代のロンドンのクラブでいきなりレジデンツがかかったりしたのにやられたり。ニューヨークでもデヴィッド・モラレスがいきなりブッカー・Tとかをかけるわけ、それが最高にかっこいいんだよね。あの感覚っていまのメディアが伝えてるDJカルチャーとは全然違うし、それこそいろんな意味でミックスしてたんだよね。84~85年には音楽やファッションにそういう感じがあったね。
[DR.MARTENS X DEMENTED ARE GO]LIMITED EDITION COLLECTION
また、今シーズンのアイテムの中で注目したいのがサイコビリーバンドのレジェンドDemented are Goとのコラボレーションアイテムだ。
1982年にウェールズのカーディフで結成された彼らは、パンクロックとロカビリーをミックスしたオリジネーターともいえるバンドであり、今までに70曲以上を発表し、世界中のサイコビリーライブにてヘッドライナーをつとめるなどシーンに大きな影響を与えている。
今回のコラボレーションでは、彼らのアルバムアートワークをプリントした8ホールブーツ2タイプをリリース。ハードコアなサイコスたちの寵愛を受けて来たまさしく“本物”のブランド[DR.MARTENS]だからこそ実現できる珠玉のコラボレーションブーツだ。