MasteredレコメンドDJへのインタビューとエクスクルーシヴ・ミックスを紹介する「Mastered Mix Archives」。今回登場するのは、イタロ・ディスコやコズミックをいち早く日本に紹介し、世界的にも高く評価されているディガーズDJ集団、DISCOSSESSIONの一員にして、話題のオンライン・ショップ、SUNLINE RECORDSを運営するDr.Nishimura。
20年以上に渡ってレコード・ショップのバイヤーを務めてきた彼は、伝説のレコード・ショップ、バロン・レコーズ、そして、今はなきCISCOハウス店ほかで、その後のトレンドを切り開くことになるヴァイナルの数々をトップDJに供給。さらには、ハウス・ミュージックの名ディスク・ガイド本『HOUSE definitive 1974-2014』を刊行するなど、ハウス・ミュージックに関する博士級の知識はつとに知られている。
さらに、DJとしても、ヨーロッパ・ツアーをたびたび行っているほか、現在はDJのCOMPUMA、AWANOとともに極北的なレフトフィールド・パーティ『悪魔の沼』を主宰。BLACK SMOKERほかからリリースした数々のミックスCDで細分化されたジャンルを遥か彼方に、異形のサイケデリック・ミュージックを提示している彼のインタビュー&DJミックスを通じて、常にオルタナティヴであり続けるそのキャリアを紐解いた。
Interview & Text : Yu Onoda、Photo & Edit : Yugo Shiokawa
※ミックス音源はこちら!(ストリーミングのみ)
(「悪魔の沼」について)言葉にするのはすごく難しいんですけど、3人それぞれの通ってきた音楽をスローモーな音溜まりというか、「沼」に投影している感じ
— 西村さんは、現在、ご自身で運営されているオンラインショップ、Sunline Recordsを含め、レコード・ショップのお仕事に携わって、どれくらいになるんですか?
Dr.Nishimura:一番最初に携わったバロン・レコーズから20年ちょっとになりますね。大学卒業を控えつつ、就職活動をしてなくて、そんな時に仲良くしていたDJ、(国内テクノシーンの中核としての役割を果たした青山のクラブ)MANIAC LOVEがオープンした時にレジデントを務めていた人なんですけど、その人が1993年くらいにバロン・レコーズを始めたんです。最初は店舗がなく、事務所だけ借りて、世界から仕入れたレコードを各地のレコード屋さんに卸していたんですね。
— つまり、ディストリビューターですよね。
Dr.Nishimura:そのディストリビューター業務を2年続けた後、お店を出した場所が赤坂だったという(笑)。
— バロン・レコーズは、先進的な品揃えと赤坂というレコード好きには縁遠い立地が伝説になっていますよね。
Dr.Nishimura:当時、レコード屋といったら、渋谷か新宿でしたからね(笑)。それでまあ、仕入れはそのDJの人、僕と大学の後輩の2人は接客と裏方仕事……まぁ、接客といっても、噂を聞きつけた人がちらほら来るって感じで、お客さんがホントに来ないんですよ。
— 当初、扱っていたのは、テクノだったんですね?
Dr.Nishimura:ですね。ただ、まぁ、その頃、流行っていたヨーロッパもののテクノからどんどんハウスの方向にシフトしていって、普通にニューヨークもののハウスを取り扱ったり、シェ・ダミエとロン・トレントのレーベル、Prescriptionをはじめ、デトロイト、シカゴもハウスのリリースが増えていた頃だったので、その辺のレコードを扱っていたのがバロンの一番のアドヴァンテージだったんですけど、ムーディーマンを扱うようになったのは、まさにその流れですね。
— 当時、そうしたレコードの情報はどうやって仕入れていたんですか?
Dr.Nishimura:昔も今も変わらないと思うんですけど、海外のディストリビューターから送られてくるリストを見て。ただ、当時は、今のように情報もなければ、MP3で視聴も出来なかったので、文章を読んで判断するしかなくて、試しにオーダーして、内容が良ければ、また追加オーダーするという感じでしたね。
— 当時のバロン・レコーズはムーディーマンをいち早く扱っていたお店として一部ではよく知られていましたよね。
Dr.Nishimura:自分のなかでデトロイト・テクノが落ち着いて、もうちょっと目新しいものを探していた時に、7th Cityっていう、ダニエル・ベルがやってたレーベル兼ディストリビューターがムーディーマンのレコードを扱っていたんですけど、客としてレコードを買いに行ったCISCOで、ムーディーマンのレーベル、KDJの5番(1995年リリース:Moodymann「Inspirations From A Small Black Church ON The Eastside Detroit」)」が何の説明文もなく平積みで置かれていたんですね。それで気になって買ってみたら引っかかるものがあったので、過去のカタログを含めてオーダーして、お店でも自信をもってオススメしてましたね。
— その頃のムーディーマンは当時のテクノ、ハウスの文脈とは異質なものがあったと思うんですが。
Dr.Nishimura:そうなんですよね。テクノのDJはヨーロッパ指向だったし、ハウスの人たちはニューヨーク中心の視点で動いていたから、どちらの視点からもこぼれ落ちていたものだったし、そうしたテクノ、ハウスの流れにすんなり入り込めなかったバロン組としては、ムーディーマンのサンプリングをラフに扱った音は腑に落ちるものがあったんですよ。当時、デトロイト・テクノはブラック・ミュージックの流れで正統に進化してきたものだという言説は野田努さんが伝えていたし、野田さんと知り合ったことでele-kingのディスク・レビューを書くようにもなったんですけど、それでもしっくりこない部分があったんですね。でも、ブラック・ミュージックをサンプリングしたムーディーマンの音はまさにそういう音だったんですよ。
— 当時の時流から外れた音にいち早く反応出来たのは、西村さんがオルタナティヴな感性をお持ちだったということだと思うんですけど、西村さんの土台はニューウェイヴなんですよね?
Dr.Nishimura:そうですね。ニューウェイヴと呼ばれる音楽に打ち込みの音楽もたくさんあって、リアルタイムでは(Front 242やニッツァー・エブ、スキニー・パピーに象徴される)エレクトリック・ボディ・ミュージックなんかもよく聴いていたんですけど、ちょっとなんかロック的なイカツさが性に合わなくなってきたとも思っていて。そのちょっと後からハウスも知って、当時、たくさん出ていたコンピレーションCDを聴くようになったんですね。そうしたら入った大学の音楽サークルで、自分と同じルートでハウスを聴いてたヤツがハウスの12インチ・シングルをガンガン買っていて、それに引っ張られるような形で自分も12インチを買うようになったんですよ。そして、そうこうしているうちに、下北沢のクラブ、ZOOでDJ YASSさんがやってたイベント「CLUB PSYCHICS」でハウスっぽいものを回すDJを探してるっていう話が来て、特に審査されることもなく、DJを始めるようになったんです。
— 「CLUB PSYCHICS」はニューウェイヴとダンス・ミュージックのクロスポイントとなったイベントですよね。
Dr.Nishimura:その先陣を切っていったのが、EMMAさん、それからボディ・ミュージックに特化して、打ち込みの固い音をかけてた関根さん(DJ BABY TOKIO)といったDJがいて、その流れを受けて、YASSさんも方向性をシフトしていったんですね。もともとの「CLUB PSYCHICS」はポジティヴ・パンクとかゴス色が強いイベントで、シスター・オブ・マーシーなんかがかかるとゴスの常連の人たちが輪になって踊るっていう、そういう世界だったので、そのシフト・チェンジはかなり大胆なものだったんですよ。
— でも、当時は知られていませんでしたけど、デトロイト・テクノのオリジネーターももともとはヨーロッパのニューウェイヴやボディ・ミュージックに強く影響を受けていたんですもんね。
Dr.Nishimura:そう。後々、そういう流れがあったことを知ることになったという。で、まぁ、そういうデトロイト・テクノを聴きつつ、R&SやXLといったレーベルがハードコア・テクノの作品を沢山出していたんですけど、「CLUB PSYCHICS」ではそういう音が受けていたんですね。
— アグレッシヴなハードコア・テクノはロック・リスナーにとっては入りやすかったんでしょうね。
Dr.Nishimura:自分もそういうものは聴いていたんだけど、毎回そういうDJを要求されるのが苦になってきて(笑)。当時はテクノに関して言えば、リリースされるものが全て新鮮だったから、片っ端から聴いてましたが、フロアで求められる音のタイプはやはり狭いというか。
— 一方で西村さんはバットホール・サーファーズやシミーディスクだったり、80年代のアンダーグラウンドなアメリカン・オルタナティヴにも造詣が深いという印象があります。
Dr.Nishimura:ダンス・ミュージックにハマる前は、その辺のいわゆるジャンク・ロックと呼ばれる音楽が好みのど真ん中で、大阪の天理大学で非常勤講師をやってたアメリカ人がそういうアメリカのインディーズもののレコードを買い付けて、そのリストをもとに毎週土曜日の午後に電話注文を受け付けていたんですよ。同じようにその人からレコードを買ってたBOREDOMSのEYEさんは、そこで買ったものをFOOL’S MATEで紹介していたんですよ。だから、そうやって当時は何が何だか訳の分からない7インチ・シングルを買っていましたよ。「CLUB PSYCHICS」ではそういうレコードをかけるっていう方向性もあったんですけど、クラブでかけても、盛り上がる感じの音楽ではないですからね(笑)。
— ムードマンと出会ったのも、ちょうどその頃だったとか?
Dr.Nishimura:そう。ムードマンとは同じ大学だったんですけど、彼は最初、ハードコア・パンクのサークルに在籍しつつ、ON-U研究会というサークルを立ち上げて(笑)。僕もON-Uは好きだったので、そこに連絡を取って、初めて会ったという。まぁ、実質的に活動はなかったんですけど(笑)、当時、彼はすでにZOOでDJをやったり、COOL SPOONに参加してたり、自分とは違う、かなり先端なシーンにいた人だったんですよ。
— ただ、一つ言えるのは、西村さんもムードマンも雑食な音楽指嗜好を背景に、テクノに惹かれていったということ。その雑食性が90年代後半以降のダンス・ミュージックとも合致していきますよね。
Dr.Nishimura:そうですね。「CLUB PSYCHICS」以降は、バロンで働きつつ、テクノからハウス、といっても、当時の主流から外れたテクノっぽいハウスへとシフトしていったところで重要だったのはイジャット・ボーイズですよね。最初に聴いた時、頭の中に疑問符が浮かびつつ、「これ、ハウスなのかな? でも、これがハウスだったら、イケるな」って思ったんですよ。そうこうしているうちにハーヴィーのBLACK COCKがリリースするようになったり、UKのハウスも面白いものがポツポツ出てくるようになり、どうやら、この辺の音楽は昔のディスコに手を加えたものらしいということが分かったことで、ディスコにも手を伸ばすようになって。そんななか、出てきたのがムーディーマンだったという。
— その辺りの音が90年代後半から00年代初頭にかけて、盛り上がっていったと。そして、その後、西村さんは青山の蜂で「BUCK WHYLIN’」というご自身のパーティを主宰されていましたよね。
Dr.Nishimura:最初は中目黒の高架下にあった小さな箱の火曜日に始まって、僕と2MUCH CREWのぽえむと、あと何人かがDJだったんですけど、その後、青山の蜂で日曜日の午後のデイ・イベントに発展していったんです。ただ、「BUCK WHYLIN’」というのは、ものすごい酒ノリのパーティで、色んな意味でひどかったんですよ(笑)。
— ケンカが絶えないパーティだと風の噂でよく聞いてました(笑)。
Dr.Nishimura:そう。かなりの頻度でケンカが起こってたっていう。身内でも(笑)。当時、青山のCAYではロフト・スタイルのピースフルなパーティ、GALLERYが同じく日曜日に始まってたんですけど、「BUCK WHYLIN’」と行き来していた人いわく、その落差にヤラレまくっていたという(笑)。
— ムードマンなんかもよくDJしてましたし、2MUCH CREWのメンバーが顔を揃えていたり、ダンス・ミュージックのオルタナティヴな側面を追求していたダンス・ミュージックのアウトサイダーによるパーティ……
Dr.Nishimura:いや、ホント、完全なアウトサイダーでしたよ。だから、胸張って、「DJです!」と言う気にもならないし(笑)、酒のせいで当時、覚えていていいことがかなりの部分ごっそり抜け落ちているんですよね(笑)。あと、アウトサイダーを惹きつけていたパーティといえば、LIFE FORCEですよね。よく通っていたんですけど、僕がアーサー・ラッセルを知ったきっかけもニック・ザ・レコードだったりするし、彼は非主流のダンス・ミュージックをいち早く紹介したDJですよね。
— その後、西村さんはバロン・レコーズの店員からCISCOハウス店のバイヤーになり、その鋭いセレクションのお世話になったDJは数多いと思うんですけど、その後、西村さん自身はイタロ・ディスコ、コズミックにハマっていくんですよね?
Dr.Nishimura:CISCOでは好きなものを仕入れさせてもらってたんですけど、シカゴのディストリビューターが送ってきたリストにロン・ハーディがかけていたようなイタロものの旧譜がちょこちょこ載ってて、そういうものを仕入れたり、あと、オランダのI-FというDJが『Mixed Up In The Hague Vol.1』っていうミックスCDを出したんだけど、そこで使われていたのがイタロ・ディスコだったんですね。そういうきっかけがありつつ、「BUCK WHYLIN’」のお客さんのつながりで知り合ったのが、(CHEE)清水さん。
— その出会いがDISCOSSESSIONにつながっていくんですね。
Dr.Nishimura:そう。清水さんが店に現れて、「イタロ・ディスコに興味があるって聞いたんですけど」って。清水さんはイタリアの業者からレコードを買ったり、自分より全然詳しかったんですけど、意気投合して、情報交換したりしているうちに「イベントをやろう!」ということになったのが、DISCOSSESSIONの始まりなんですよ。
そして、どういう経緯だったのか全く思い出せないんですけど(笑)、DISCOSSESSION名義の作品をCRUE-Lから出したり、CISCOの買い付けをしながら、ヨーロッパでDJしたり。その流れはコズミックにつながっていくんですけど、そのきっかけはイタリアで開催されたRed Bull Music Academyにジョニー(・ナッシュ:DISCOSSESSION、LAND OF LIGHTS)が参加したら、そのパネリストにコズミックのオリジネーター、ダニエル・バルデッリが来ていて、そこで興味を持った彼がバルデッリのミックステープを仕入れてきたんですけど、そのミックステープがものすごい衝撃で。ニューウェイヴはかなり聴いてきたつもりだったんですけど、そこで使われているニューウェイヴらしき音楽は全然分からなかったし、それがまた昔の音楽を掘るきっかけになったんですよ。
— コズミックはレコードを通常の回転数からピッチダウンしてかけたり、聴く音楽の幅やその聴き方を広げましたよね。
Dr.Nishimura:そうですね。スローモーなプレイでズブズブやっていくのは、お客さんのことを考えるとなかなか大変だったんですけど(笑)、その後、清水さんは自分で始めるオンライン・ショップ、ORGANIC MUSICの品揃えがそうであるように、フロアに限定されないリスニング・ミュージックの音響を追求するようにもなって、その流れは現行のバレアリックにもつながってるじゃないですか。自分の場合はコズミックをこじらせつつ、その受け皿として「悪魔の沼」というパーティが始まったという(笑)。
— はははは。コンピューマことコンピュー魔とDJ AWANOことA魔NOさん、Dr.NishimuraことDr.Nishi魔raからなる3人のDJによるレフトフィールドなパーティですね。それこそ、この記事が出る10月31日から大阪、高松、京都を回る関西ツアーが始まりますが、最初は企画色の強いパーティでしたよね。
Dr.Nishimura:下北沢MOREの前身、Room"Heaven & Earth"で始まったんですけど、飲みの席で話で松永さん(コンピューマ)が「ちょっとおかしなことをやりたい」と。それで内容自体はそれほどでもないんですけど、映画『悪魔の沼』のVHSパッケージの色使いをモチーフにイベントをやることになって(笑)。松永さんのつながりでロボ宙さんが参加したり、最初は僕も含めた3人のDJがひとり30分交代で回したりしてたんですけど、30分だと流れを作るのが難しいんですよ(笑)。その後も色んな試行錯誤があって、松永さんが電子音楽を混ぜたり、僕とAWANOがコズミック・マナーのスローモーなプレイをやったりしているうちに、3人がバック・トゥ・バックでDJをするようになったら、それはそれで大変だったんですけど、一人では作れない新しい流れが出来るようになって。それ以来、そのスタイルが定着したんです。
— 気が付けば、EYEさんや瀧見憲司さん、CMTも絶賛した『沼日和』を皮切りに、『悪魔の沼・ドキュ魔ント -live mix document-』。BLACK SMOKERからリリースされた『涅槃 -Nirva魔-』、『MAGNETIC numa study sessions』と、数々のミックスCDがリリースされていますけど、「悪魔の沼」感って、分かるような分からないような(笑)。
Dr.Nishimura:そう。言葉にするのはすごく難しいんですけど、3人それぞれの通ってきた音楽をスローモーな音溜まりというか、「沼」に投影している感じ。当初、スクリューだったり、ぶっ飛んだ部分は松永さん、グルーヴをキープする部分は自分が担っていたんですけど、気が付いたら、3人のDJがぐちゃぐちゃな感じになっていて、しかも、相当にこなれてきているという(笑)。というか、そもそも、「悪魔の沼」はここまで続くパーティになるとは自分たちでも思ってなくて(笑)。
— ただ、今のダンス・ミュージックは細分化されていて、いい意味でのハプニングが起こりにくくなっていると思うんですよね。そんななか、「悪魔の沼」はジャンルも説明が難しいし、予期しない嬉しいハプニングが起こる希有なパーティなんじゃないかと。
Dr.Nishimura:例えば、コズミックは音楽的にフリースタイルなんですけど、あれは厳然としたディスコ文化から生まれたものだし、きっちりビートをミックスしたりといった暗黙なルールがあるんですけど、「悪魔の沼」はそれすらないっていう。CISCOで働いていた頃、ニュー・ディスコと呼ばれる音楽がブレイク・スルーとなって、新鮮味を感じていたんですけど、今となってはある種のフォーマットに則った作品が多くなってしまったというか、ダンス・ミュージック全般に言えることなんですけど、機能性という意味で限定された作品が多いと思うんですね。そんななか、かつて、タワーレコード渋谷店4Fで異常なコーナーを形作っていたバイヤーの松永さんと密に絡んで、「悪魔の沼」を始めたことは自分にとってはかなりデカくて。かつて、メルツバウにハマっていた頃の自分を思い出したりするところもあったりするんですよ(笑)。
— そんななか、西村さんは今年の1月からご自身のオンラインショップ、Sunline Recordsをスタートされましたよね。
Dr.Nishimura:そうですね。長年、レコード・ショップを渡り歩いた末に自分のお店を始めることにしたんですけど、今回、ここで話してきたように、この20年で自分が刺激を受けてきたもの、そのなかでも今聴いて面白そうなものを打ち出していけたらなって。最近はCOS/MESのFLATICがセレクトした盤も扱うようになっているんですけど、彼とはリスニング寄りのものも増やしていこうと話しているところなので、今後の展開もぜひチェックしてみて欲しいですね。