※ミックス音源はこちら!(ストリーミングのみ)
「ジャンルは自分」というか、昔から「あの人、本職は?一体、何なんだろう?」って思われる人になりたくて。
— CHABEくんはもともとレゲエ・フィールド出身なんですよね?
松田“CHABE”岳二(以下、CHABE):そう、一番最初は20歳くらいの時、レゲエのクルーにいて、Taxi Hi-FIの機材の積み込みを手伝ったり、代々木チョコレート・シティ(以下、代チョコ)のイベントでYOU THE ROCK & DJ BEN、SOUL SCREAMの前身のPOWER RICE CREWっていう面子に混じってライヴをやったりしてて、95年くらいまで地味に活動していたんだよね。
— ということは、FREEDOM SUITEでの活動と被っていた時期があると。それは知らなかったです。
CHABE:僕はシンガーで、レゲエのトラックで歌っていたんだよ。相方はラスカルって人で、その学校の友達がCUBISMO GRAFICOの初代ベーシストの330くん(元電気グルーヴ)。その流れで90年くらいから下北沢の(クラブ)ZOOへ行くようになって、最初は川辺(ヒロシ)さんとか荏開津(広)さんがやってた日に行ってたんだけど、瀧見(憲司)さんがやってた「LOVE PARADE」っていうイベントへ行くようになって。
— 曜日とジャンルを飛び越えたと。
CHABE:そうそう。そこで瀧見さんだったり、(渋谷にあったレコードショップ)ZEST周りの人たちに会って、「わー、この人たち、めちゃくちゃ色んな音楽聴いてるんだ!」って、すごい衝撃を受けた。当時のレゲエの人たちが聴いていたのは、レゲエとオリジナルのソウル、あとちょっとヒップホップって感じだったんだけど、「LOVE PARADE」やZEST周りの人たちは90年の段階で、UK、USインディーズに、ハウスにネイティヴ・タン系のヒップホップ、あと「ビーチ・ボーイズも掘れ!」って言われたりとかさ(笑)。もう、ありとあらゆる音楽を聴いていて、「とにかくレコードなんだ!」って思って。
それで「LOVE PARADE」でばったり会った当時の大学の同級生と放課後に御茶ノ水へレコードを掘りに行くようになって、ソフト・ロックとか、昔のレコードを教えてもらったりしつつ、その時期に知り合ったのが、カジ(ヒデキ)くん、(元ESCALATOR RECORDS、現BIG LOVE RECORDSの)仲(真史)くん、(FREEDOM SUITEの)山下洋とか。
— 超濃厚な出会いがあったんですね。
CHABE:それで瀧見さんがかけてた曲を次の日にWAVEとかZESTで買ったりしているうちに、アシッド・ジャズだったり、UKソウルが盛り上がってきて。その時期、渋谷に(クラブ) THE ROOMがオープンするんだけど、火曜日に瀧見さんと神田(朋樹)くん、山下くんが新しいパーティを始めて。当時、自分のバイト先が渋谷だったから、毎週通うようになるんだけど、THE ROOMオープン当初の火曜日はまだお客さんが入ってなかったから、そうなると音楽を聴くくらいしかやることがないじゃない? その時のTHE ROOMの店長はMONDO GROSSOのパーカッションをやってた堀江(健治)さんって人だったんだけど、お店のキャッシャーに置いてあったパーカッションを触らせてもらっているうちに、山下くんから「今度、ライヴをやるから、下手でもなんでもいいから、パーカッションで参加してよ」って。まさか自分がバンドをやることになるとは思っていなかったんだけど、そうやってうっかり始めたことが、その後の音楽活動に繋がるっていう(笑)。
— その山下くんのバンドがモッズ・バンド、FREEDOM SUITEなんですね。
CHABE:そう。そこから現CENTRALの及ちゃん(及川浩志)とか、亡くなったWACK WACK RHYTHM BANDのサニーとか、そういう知り合いに聞きながらパーカッションを叩くようになって。その後、堀江(博久)くんとNEIL&IRAIZAを始めるんだけど、あのプロジェクトは堀江くんが作ったデモの断片がたくさんあったから、それを僕が聴いて、「この曲いいんじゃない?」って意見したり、僕が面白いと思うアレンジのアイディアを提供したり。あと、僕が担当したのは歌詞だよね。ただ、まぁ、NEIL&IRAIZAは堀江くんの曲ありきのプロジェクトだったから、「NEIL&IRAIZAとは全く別の自分一人の音楽をやりたい」ってところから、ソロを始めて。
— CUBISMO GRAFICOですね。
CHABE:そう。29歳の時にサンプリングの手法で……要はトライブ・コールド・クエストの手法でソフト・ロックが出来ないかなってことで、『tout!』っていう初めてのソロ・アルバムを作ったんだけど、それまでは「音楽とは別で、ちゃんと働いた方がいいな」と思っていたし、音楽で生活出来るとは全く考えてなかったんだよね。でも、その頃、メジャー・シーンでリミックス仕事をたくさんやらせてもらって、ちゃんとギャラをもらえるようにもなったし、「これは次のステップを考えていいかもしれない」と思って、そこでようやくバイトを止めた……というか、忙しくてバイト出来なくなっちゃったっていう。あと、その時にもらったギャラで次に繋がるように楽器を買うようにしてたから、それが後々の活動にまたつながっていくんだよね。
— でも、CUBISMO GRAFICO以前にNEIL&IRAIZAは数万枚のヒットを記録したじゃないですか。音楽家として生活していけるという確信が生まれたのはその時じゃなかったんですね。
CHABE:まぁ、でも、95年くらいから2000年までの音楽シーンって、バブル期だったからさ、どんな新人でも出せば、そこそこ売れたでしょ。いま考えたらすごいことなんだけど、残念なことにその時は全く自覚がなかったし、友達のなかにHi-STANDARDがいて、そのすごい売れ方を見ていたから、「うちらなんか全然」って思ってた(笑)。
— その頃、分かりやすく言えば、渋谷系とAIR JAM系のクロスオーバーもありましたよね。あれはどういうことだったんですか?
CHABE:僕とイッチャン(LOW IQ 01)、それから330くんが結構動いていたんだよ。
さかのぼると、僕がレゲエのクルーにいた時代、イッチャンはSUPER STUPID、アクロバットバンチの前に、アポロスっていうスカのバンドにいて、代チョコで対バンしていて。その後、95年にSUPER STUPIDが「PULL UP FROM THE UNDERGROUND」っていう12インチをシスコから出して、そのパーカッションを頼まれたんだけど、その時のドラマーがHi-STANDARDの恒ちゃん(恒岡章)だったり。あとは、下北沢の(クラブ)SLITSもデカかった。その流れで生まれたSHAKKAZOMBIE、COKEHEAD HIPSTERSとかみんな仲がいいから、その辺がぐちゃぐちゃっとなったり、SUPER STUPIDとかHi-STANDARDのライヴをよく観に行ったりするなかで繋がっていった感じ。
— そして、2001年に手掛けた映画『ウォーターボーイズ』の音楽が日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞するという大きなトピックもありつつ、ソロのCUBISMO GRAFICOはその後、バンド編成のCUBISMO GRAFICO FIVEに発展していきますが、どうやって曲は作っていたんですか?
CHABE:CUBISMO GRAFICOはレコードをスタジオに持っていって、NEIL時代から付き合いがあるスタジオのエンジニア、及川(勉:現curva nord studio)さんと一緒に機材を4年くらい手探りで勉強しながら作っていった感じ。
PRO TOOLSを使うようになるまでは、サンプリングしても、キーを変えたり、加工したりするのが大変だったから、ムード音楽をひたすら聴いて、重ねるサンプル・フレーズを探してた。
でも、その一方でシンセサイザーも好きで、わからないなりに鍵盤を弾くようになってから、発想を転換して、手弾きしたトラックにスパイスとしてサンプリングを当てるようになって、そこから曲がどんどん出来るようになった。もう、サンプリングはいらないやって感じで、自分で楽器を弾くようになったんだよね。
— その発想がCUBISMO GRAFICO FIVEにつながっていったんですね。
CHABE:「ハード・ディスク・レコーディングが発達して、楽器が弾けなくなった」って、よく言うじゃない? でも、僕のように弾けなかった人は逆に弾けるようになるんだよね。というのも、一小節、二小節がんばれば、ループ出来るでしょ? 僕はギタリストに来てもらうとか、そうやって人の手を借りたくなかったから、その二小節を練習しているうちになんとなく弾けるようになっていったっていう(笑)。
— レゲエのシンガーからパーカッション、そして、サンプラーとシンセサイザーから、ギターやスティール・パンほか各種楽器と、作品を作りながら勉強、練習した結果が今のCHABEくんを形作っているわけですね。
CHABE:そうそう。楽器って楽しいから、そうやって新しい楽器を弾くことで武器が増えていく、そんなイメージ(笑)。最初は下手だから、人前に出せるものではないんだけど、やってるうちに下手なりに出来るようになるというか、自分にプラグインしていく、みたいな(笑)。でも、30になってから始めたギターと鍵盤も、今、43だから気が付いたら13年も経ってるっていう(笑)。「30から総理大臣を目指すのは無理でも、バンドを組むくらいは出来るよ」って、よく人に言ってるんだけど、ホント、そういうのはやるかやらないかだから。
ちなみに今はトロンボーンを吹こうと思って、こないだ安いやつを買ったんだけど、管楽器はダメだね(笑)。ギターや鍵盤みたいに触っても音が出ないし、まず、マウスピースが鳴らないんだよ。だから、今回ばかりは無理かなって(笑)。
— はははは。それに加えて、CHABEくんはDJも続けてますよね。
CHABE:19、20の頃から、DJも気づいたら長くやってるよね。最初はスカとかレゲエをかけてたんだけど、21歳の時に(カメラマン、ライターの)梶野(彰一)と渋谷のDJバー・インクスティックで自分たちのパーティを何度か企画しているうちに、変な音楽を変なミックスでかけていたからか、橋本徹さんにフリー・ソウルのイベントに誘われて。そこで初めてギャラをもらったし、すごい数のお客さんを踊らせるのに、誰かの真似をしてもダメじゃん? だから、レコードをガンガン掘りながら、自分らしさを試行錯誤するようにもなった。たしか、最初のイベントではMOODMANがスティール・パンのカヴァー物をかけてて、それにすごい衝撃を受けたり、あと二見(裕志)さんもいたよね。だから、知り合うべき人は早くから知り合っているというか、シーンの大小にかかわらず、人と人の繋がりって意外に狭いものなんだなって、今は思うよ。
— CHABEくんのDJは色んなジャンルの音楽、なかでもメロディックな歌モノを細かく繋いでいくスタイルですよね。
CHABE:そうだね。「ジャンルは自分」というか、昔から「あの人、本職は?一体、何なんだろう?」って思われる人になりたくて。一般的にそういう分かりにくい人は損するというか、ひとつのことで誉められることがないから大変なんだけど(笑)、自分はそういう人になりたかったし、交友関係も色んなものを飛び越えていけば、色んな人を繋げられるじゃん。DJのスタイルにしても、僕は大箱でやらないから、身を委ねてもらって、どこかに連れていくというより、4つ打ちの後に同じBPMでノーザン・ソウルをかけたり、ジャンルを飛び越えていく感じ。そういう意味では小箱向きなんだよね。
ただ、自分のスタイルが定まってからは、ものすごい最先端なことをするわけではないというか、そういうことは若い人がやるべきだし、「自分はDJです!」と声高に言わなくてもいいというか。渋谷のORGAN BARでやってる「MIXX BEAUTY」は長く続けているイベントだし、もちろん、それは一生懸命やりたいと思っているんだけどね。
— さらに音楽とDJに加えて、現在、CHABEくんは原宿でエキシビジョン・スペースのKit galleryも運営されていますよね。
CHABE:その場所はもともとデザイン事務所とシェアしていて、僕は音楽制作の作業場として使っていたんだけど、デザイン・チームにとっては手狭になったから、引っ越すことになったんだよね。でも、出ていく1週間前に、「いや、待てよ」と。
どういうことかというと、2008年くらいから僕はグラフィックとして捉えたプラカードを作るプロジェクトをやっていたんだけど、「東京で個展をやってください」っていう要望が多かったから、ちょうど、出ていくタイミングでギャラリーを1週間借りる費用を調べてみたら、すごい高かったのね。だから、そこで発想を変えて、作業場をギャラリー・スペースとして使って、アパレルの知り合いに展示会なんかで安く提供したら、維持出来るんじゃないかなって。それで、toeの山ちゃん(山嵜廣和)に内装を考えてもらって、2010年にKit galleryを立ち上げて。
ただ、始めてはみたものの、どう運営したらいいか分からないから、あまりに安く貸したり、1年目は赤字。2年目がトントン、今度の12月で丸3年目になるんだけど、収支を上手く合わせるために、帽子とか物販を作るようになったっていう。まぁ、運営は難しいんだけど、「やるぞ!」っていう人が出入りしている空間だから、そういう人たちを見てるのはワクワクして楽しいんだよね。
— まぁ、空間を作るというのは、一つの作品を作るのと同じですしね。
CHABE:まぁ、ただの白い箱なんだけど、そう思ってもらえたらいいかな。だから、そうやって、Kit galleryを運営しながら、音楽制作も充電を図りつつ。作品としては2年前にCHABE名義で出したソロ(『Me.』)が最新作になるんだけど、今もその時のモードを引っ張っていて。周りからはチルウェイヴとか言われたりもするんだけど、例えば、レモン・ジェリーとかさ、そういうメロディックなダウンテンポは昔からあったし、きれいなシンセがレイヤーされているような音楽はずっと好きなんだよね。だから、その発展系の作品を作りたいと思っているんだけど、ギャラリーの運営が忙しくて(笑)。だから、まぁ、気長に待っててもらえたらうれしいんだけどね。