Vol.03 Max Essa – 人気DJのMIX音源を毎月配信!『Mastered Mix Archives』

by Yu Onoda and Yugo Shiokawa

MasteredレコメンドのDJのインタビューとエクスクルーシヴ・ミックスを紹介する大好評企画「Mastered Mix Archives」。記録的なアクセスとなった前回のPUNPEEに続く第3回目は、川崎から世界に向けてディスコ、バレアリックを発信し続けている世界的なイギリス人DJ/トラック・メイカーのマックス・エッサ(Max Essa)

あのアンディー・ウェザオールやデヴィッド・マンキューソも一目置く、その才能はどこからやってきて、どこへ向かうのか。日本の夏の終わりをイメージして作ってくれた実に味わい深いDJミックスを聴きながら、謎多き彼のキャリアに迫ったインタビューをお楽しみください。

※今回よりダウンロード版の提供は一週間限定となります。お早めに。

※ダウンロード版の配信は終了しました。

僕の目には、日本のダンス・ミュージック・カルチャーがイギリスよりも真剣であるように映っているんだ。

— マックスは今年でDJ歴21年になるんですよね。

Max Essa(以下Max):1990年に始めたから、今年で21年目だね。最初のギグは当時住んでいたノッティンガムのラフなパブの2階でやってた、マンスリーのパーティ。それから3ヶ月に一度プレイするようになるんだけど、最初のDJがすごく楽しかったことはよく覚えてるよ。

— ノッティンガム? あれ、ロンドン出身じゃなかったんでしたっけ?

Max:そうだよ。ロンドンの郊外で生まれた後、ケンブリッジから電車で1時間くらいのところにあるノーフォークっていう海辺の田舎街に引っ越したんだ。いってみれば、軽井沢みたいな観光地だよ。20歳くらいまでそこで暮らしていたんだけど、当時、友達とバンドをやっていて、ロンドンかマンチェスターみたいな大きな街に引っ越そうってことになったんだ。
ただ、ロンドンには18歳の時に住んでみたことがあって、その時は環境の違いが肌に合わなくて、すぐにまたノーフォークに戻ったんだんだよね。
だから、当時、ハッピー・マンデーズの活躍で脚光が当たったマンチェスターがいいんじゃない?ってことになって。でも、マンチェスターはマンチェスターで、当時は人気バンドがあまりに沢山いて、そこでやっていくのも難しそうだったから、ロンドンとマンチェスターのちょうど中間にあるノッティンガムはどうか、っていう話になったんだ。
全く知り合いはいなかったけど、当時のノッティンガムには素晴らしい音楽シーンがあって、チャールズ・ウェブスターとかDiYサウンド・システムが最高のパーティーをやっていたこともあって、1990年にバンド・メンバー3人で引っ越すことを決めたんだ。
そこで色んなパーティーに遊びに行くようになって、DiYクルーだったり、色んな人たちと出会って、その流れでDJもするようになったんだよね。

— 1993年にWARPからリリースしたDiYのコンピレーション・アルバム『Strictly 4 Groovers』にEssa名義で制作したマックスの最初の作品「Up There Out There」が入っているのも、何枚かのシングルをDiYのレーベルから出したのも、そういう流れがあったんですね。ただ、それ以前のマックスはバンドをやっていたんですよね?

Max:そう。クランプスが好きだったから、13歳くらいからずっとロカビリーとかサイコビリーみたいなバンドをやってたんだ。ただ、同時に色んな音楽が好きで、確か1987年だったと思うけど、ブラック・ダンス・ミュージック好きの友達からハウス・ミュージックが入ったテープをもらったんだよね。当時、アシッド・ハウスがナショナル・チャートにランク・インするようになって、瞬く間にイギリス全土に広がっていくんだけど、僕もバンド活動とは別に、パーティーに遊びにいって踊るようになったんだ。

— 自分もそれ以前はロックを聴いていたんですけど、1988年にイギリスのチャートに入ったアシッド・ハウスを始めて聴いた時、これが音楽だとはとても思えなかったんですよね。マックスはいかがでした?

Max Essa(マックス・エッサ)
今年でDJ歴21年目を迎えるイギリス出身、川崎在住のベテラン・クリエイター。世界のレーベルから引く手あまたの才能は、これまでに4枚のアルバム、20枚以上のシングル、数多くのリミックスを手がけている。

Max:僕もそうだったよ。当時、周りで誰もプレイしていなかったし、ミュージック・ビデオもダンサーが踊ってる面白可笑しい、キワモノって感じだった。ホントに「これは何だ?」って感じだったよ。
ただ、同時にアシッド・ハウスから何かエキサイティングなものが感じられたというか、音楽的にも友達からもらったハウスのテープを何度も繰り返して聴くうちにベースラインが気に入ったんだ。そして、パーティに遊びに行くようになって本当の素晴らしさに気づくことになるんだけどね。

— 最初に遊びに行ったアシッド・ハウスのパーティは?

Max:当時、住んでたノーフォークでは世界的に知られる(ノーザン・ソウルの大型イベント)『ソウル・ウィークエンダー』が定期的に行われてて、イギリス全土から沢山の人が遊びに来てたんだ。そのメインルームはロンドンやアメリカから来たDJが70年代のソウルやブギー、ジャズ・ファンクなんかをプレイしてて、サブ・ルームではジャズがかかっていたんだけど、アシッド・ハウスに火が付いた1988年は、サブ・ルームでソウルやジャズがかかっていたものの、メイン・ルームはストロボとスモークが焚かれて、ハウス・ミュージック一色になったんだよ。あれには驚いたね。
そして、『ソウル・ウィークエンダー』とちょうど同じ時期に、今もプレイしているリッチーっていう地元のDJがいて、彼は後にプロディジーのツアーDJを務めることになるんだけど、そのリッチーがティファニーっていう大きなクラブで当時やってたソウル・ミュージックのパーティーに、ロンドンのスペシャル・ブランチっていうDJクルーがやってきたんだ。スペシャル・ブランチは知ってる?。

— ニッキー・ホロウェイにダニー・ランプリング、ピート・トン……もともとはソウルやジャズをプレイしていたけど、イビザで出会ったアシッド・ハウスやバレアリックの洗礼を受けたアシッド・ハウス黎明期のDJたちですね。

Max:そうそう。ポール・オークンフォルドやジャイルズ・ピーターソンなんかも出入りしてたクルーなんだけど、彼らがやってくるようになって、リッチーのパーティでもフランキー・ナックルズとか、初期のハウス・ミュージックがかかるようになったんだ。僕が本当の意味でハウス・ミュージックの洗礼を受けたのはそのパーティーだね。最初は「なんで、みんな、こんなに狂ったように踊ってるんだろう」ってホントに驚いたんだけど、踊っているうちに「ああ、こういうことか!」って(笑)。
そして、その体験を境に、僕の頭の中は完全に、そして永遠に変わってしまった。でも、当時はバンドのギタリストとして音楽活動をしていたから、家でハウス・ミュージックを聴きながら、「こういうトラックを作ってみたいな」と思いつつ、その後、2年くらいはバンドでギターを弾いていたんだ(笑)。

— はははは。バンドとハウス・ミュージックに身を引き裂かれていた時期がしばらくあった、と。

Max:でも、ノッティンガムに移った後、1991年のある日、友達から「マックスはハウス・ミュージックを作るべきなんじゃない?」って言われて、ハッと気づいたんだ。そこで当時のバンド・メンバーだったティム、彼とはその後、ESSAってユニットとして作品をリリースすることになるんだけど、彼と「ハウス・ミュージックを作ろう」ってことになったものの、どうやって作っていいか分からなかったし、僕らが持ってた機材はバンド用のものだった。だから、フラットのキッチンテーブルに機材を並べて、手近にあったローランドのドラムマシーンで簡単なブログラムを組んで、その上でCASIOみたいなチープなキーボードでベースラインや上モノを手弾きしたり、ギターのエフェクターで加工したものをカセットのMTRに重ね録りしたんだ。だから、最初に作ったトラックはハウス・ミュージックとはとても呼べないものだったね(笑)。

— 当時のノッティンガムのシーンについて教えてもらえますか。特にDiYクルーは1992年にキャッスルモートンで5日間ぶっ続けのフリー・パーティーに4万人以上を集めたり、イギリスのパーティー・シーンでは伝説になっていますよね。

Max:そうだね。DiYっていうのはオーガナイザーのハリー以下、6人くらいの核となるメンバーがいて、その周りに沢山のサークルがある、そんな大集団だったんだ。しかも、彼らは誰よりも酒を飲み、誰よりもドラッグを摂る、ホントにハードコアな集団だった。僕は一晩遊べば寝てしまってたけど、彼らは週末中ずっと起きっぱなしでずっと遊んでるんだ。あんなにクレイジーでハードコアな連中はその後の人生で会ったことがないよ。年下だった僕は彼らに対して恐怖感に近い感情を抱くこともあったけど、彼らはクールだったし、ナイスな連中だったよ。
そして、DiYはノッティンガムで海賊ラジオ局も運営してた。レイヴFMとか、その都度名前は変わっていたけど、DiYのメインDJデュオ、Digs & Whooshが「Serve Chilled」っていう3時間の番組をやっていたんだよね。そこではアシッド・ハウスはもちろんのこと、聴いたことがないイタリアン・ハウスやアンビエント・ミュージック、ファンクやソウルがかかっているようなおもしろい番組で、僕ももちろんよく聴いていたよ。で、彼らは番組名と同じ名前のパーティーを毎週火曜にクッキー・クラブってところでやっていたんだけど、僕はそのパーティーに通いつめたことでDiYの連中と知り合いになったんだ。そして、彼らが音楽制作に乗り出した時、最初にドアを叩いたのがキッチンテーブルでおかしなテープを作った僕らだったってわけ。
さらに彼らが紹介してくれたスクエア・ダンスっていうスタジオでエンジニアを務めていたチャールズ・ウェブスターと会ったんだ。彼はとてもフレンドリーで、作った音楽にアドヴァイスしてくれたり、僕らが買えないようなヴィンテージのアナログ機材が揃ったスタジオを自由に使わせてくれたよ。だから、彼は僕のセンパイってことになるね(笑)。

— マンチェスターのハシエンダでプレイしたのもちょうどその頃ですか?

Max:そうだね。92、3年くらいかな。当時、DiYはイギリス全土のクラブや野外でプレイしていて、みんなでバスをチャーターしてはその後を追っかけていたんだけど、その流れで僕もハシエンダでプレイすることになったんだ。
ただ、当時のハシエンダはギャングが出入りしてて、そのなかでのドラッグ売買も彼らが取り仕切っていたし、本当に危ない場所だった。そして、発砲事件が起きたこともあって、確か入口には銃を持ってないかチェックする金属探知機が置かれていたと思う。
そんな場所にDiYとして集団で行ったんだけど、箱のなかで誰かがドラッグを売ったことをきっかけにギャングと乱闘になって、その場にいた60人全員がクラブから追い出されたんだ(笑)。
その時、僕はサブルームを任されていたんだけど、プレイ出来たのは6曲くらいかな。思い出すと今でも笑っちゃうよね。

— ははは。アシッド・ハウス・シーンが落ち着いた92、3年以降はDJとしてどんなレコードをプレイしていたんですか?

Max:アシッド・ハウスがハードコア・テクノに変わって、BPMがもっと速く、どんどんひどいものになっていく状況が僕には耐えられなかった。そして、シーンが拡散していくなかで、DiYやチャールズ・ウェブスターもそうだし、僕もUSのハウス・ミュージックを追うようになっていったんだ。
なかでもトニー・ハンフリーズやシェ・ダミエは当時のフェイヴァリットDJだったね。さっきも話したように僕のルーツには『ソウル・ウィークエンダー』があったし、やっぱり、オーセンティックでリアルなソウル・ミュージックが好きだったんだ。その後、96年にロンドンに移るんだけど、90年代の終わり頃まではプログレッシヴ化する以前のUSのハウス・ミュージックに傾倒していったよ。
そして、ニューフォニックと並んでイギリスのダンス・ミュージックを打ち出したペイパー・レコーディングスからESSA名義の作品をリリースするようになって、2001年には『Detritus Excitus』っていうアルバムを出したんだ。ただ、USのハウス・ミュージックに近い作品をリリースしていたアシュレー・ビードルほか、いくつかの例外を除いて、相変わらずイギリスのダンス・ミュージックには目もくれなかったね。今思えば、もったいなかったなとも思うけど(笑)、とにかく当時はそんな感じだった。

— 90年代の後半からイギリスの一部のハウス・シーンは、ディスコやサイケデリック・ロックだったり、色んな音楽がミックスされて、よりフリー・フォームな音楽性になっていきましたよね。

Max:ハーヴィーやイジャット・ボーイズなど、一部の先駆者がハウス・ミュージックに色んなレコードをミックスするスタイルでプレイしていたけど、よりフリー・フォームになっていったきっかけを誰が作ったのか、僕にはよく分からない。ただ、2001年くらいから、ダニエレ・バルデッリに代表されるコズミックだったり、長らく忘れ去られていたバレアリック・ミュージックがリヴァイヴァルしていったのは確かだよね。
その一つのきっかけはインターネットなんじゃないかな。DJ HISTORYみたいなホームページで世界中のDJが情報を交換するようになったり、過去のダンス・ミュージックを研究したり、レアなレコードも簡単に買えるようになったことは大きいと思うよ。
個人的には『ソウル・ウィークエンダー』に通っていたこともあって、昔のディスコやいまリヴァイヴァルしてるブギーも自分にとって縁遠い世界ではなかったし、もっと言ってしまえば、長年ハウス・ミュージックを聴き続けて、イーブン・キックに飽きてしまったこともあって、自分の音楽性もよりフリーフォームになっていったんだと思うね。

— 2001年にアルバムを出した後のマックスはしばらくの間、作品リリースが途絶えてしまいますが、その当時の活動は?

Max:実はアルバムを出した6ヶ月後から数年間はクラブ通いも止めて、ダンス・ミュージックのカルチャーから距離を置いたんだ。そして、ロング・ディスタント・ランナーズっていう6人組のバンドをティムと始めるんだけど、マーシャル・ジェファーソンとジョイ・ディヴィジョンをミックスするっていうコンセプトのもと、自分たちで7インチ・シングルを作って、ラフ・トレードで売ったりしたものの、はっきりいえば、そのバンドはコンセプト倒れだった(笑)。
そして、3年くらいバンドで活動した後、またDJに復帰するんだけど、シェイメンのMr.Cとラヨ&ブッシュワッカのラヨが立ち上げたジ・エンドってクラブにAKAっていうバー・スペースがあって、ある時、街で配っていたフライヤーにそのバー専属のDJを募集する広告が載っていたんだ。そういう募集の仕方はすごく珍しいことだったんだけど、DJミックスのCD-Rを作って持っていったら、毎週金曜日の18時から22時までの時間のプレイを任されて、それから2年くらいプレイし続けたよ。
かけていたのはジャズとか古いファンクとか、そういうゆるい音楽だね。レコードはニック・ザ・レコードから買ってたんだ。彼はトラディショナルでレアなディスコ・レコードを売っていて、当時の僕のテイストにはぴったりだった。その頃、僕はTシャツをプリントする会社で働いていたこともあって、ニックとはTシャツとレコードを交換するなんてこともあったよ(笑)。
と、同時にコズミックやバレアリックだったり、よりストレンジなレコードも買うようになって、その流れは今も続いているんだけどね。

— そして、再び、ダンス・ミュージックを作るようになったのは?

Max Essa『Continental Drift』
シーン復帰作となる「The Midnight Garden EP」を含む、バレアリックど真ん中のソロ・ファースト作。

Max:新しいコンピューターと(音楽制作ソフトの)ロジックを買ったことが大きいかな。
ESSA名義で作品を作っていた頃は、モノクロ・ディスプレーで記憶容量が10メガ・バイトのコンピューターATARI1040で、(音楽制作ソフト)Q-BASEのファースト・バージョンを走らせて使っていたんだけど、それとは比べようがないくらい高性能なマッキントッシュを買ったことで、原始人が未来に目覚めたんだね(笑)。ディスプレーはフル・カラーで、記憶容量も150ギガ・バイトあったし、ロジックを使えば、昔、スタジオでやってたことがコンピューター1台で出来てしまうわけだから、ホントに興奮したよ(笑)。
そして、早速、6曲のトラックを作ったんだけど、同じ時期に知り合ったベア・エンターテインメントのスティーヴ・コーティーに聴かせたら、「これをそのまま、うちのレーベルから出そうよ」って話になって、それがマックス・エッサ名義で出した2006年のシングル「The Midnight Garden EP」なんだ。また音楽を作り出したら、思いがけずにとんとんと話が進んで、不思議な気分になったことをよく覚えてるよ。

— マックスの作品は、コンピューターのありもののサウンドではなく、ギターやベース、ドラムもオリジナルの生音が基本となっているところに大きな特徴がありますよね。

Max:僕は長年ギターを弾いていたし、ベースも上手くはないけどプレイすることが出来る。そして、ドラム・サウンドに関しては、元バウ・ワウ・ワウ/アダム&ジ・アンツのドラマー、デイヴ・バルバロッサを2日間雇って、スタジオで様々なパターンのドラムを叩いてもらったストックを今も使っているんだ。そうやって作ることによって、自分独自のサウンドを表現出来るし、なにより生音の方がはるかに音がいいんだよね。そして、僕にはプリミティヴな機材を使って、音楽制作を続けてきた経験がある。そうした全てが自分の作品には反映されているんじゃないかな。

— そして、去年リリースした最新アルバム『White Shoes Blue Dreams』では歌まで歌っていますよね。

Max Essa『White Shoes Blue Dreams』
80年代のシンセ・ニューウェイヴを現代的にアップデートしたソロ最新アルバム。

Max:スティーヴ・コーティーとのプロジェクト、Soireeのアルバム『Zim Zim Zah Zah』でふざけたヴォーカルが欲しくて、試しに歌ってみたのが最初のきっかけだったんだ。そして、2009年に出した『Continental Drift』がインスト・アルバムだったから、『White Shoes Blue Dreams』では内容に変化を付けたかった。デュランデュランやジョン・フォックス、ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンみたいな80年代のポップ・レコードのエレメントが欲しかったこともあって、彼らになりきったつもりで歌ってみたんだよ(笑)。
自分はヴォーカリストじゃないし、歌うのも恥ずかしいんだけど、当時のヴォーカリストになりきって大袈裟に歌うことだったら出来るというか(笑)。もっともあのアルバムではそこまでふざけて歌っているつもりはないんだけど、結果的にヴォーカルのストレンジな要素が、作品にいい意味でのひねりを与えているんじゃないかな。

— さらに、マックスは音楽活動を続けながら、ロンドンから川崎に引っ越して、今年で3年になりますよね。なぜ、日本に引っ越そうと思ったんですか。

Max:海外で暮らしてみたいと長らく思っていたし、僕が日本人女性と結婚したことも大きなきっかけだよね。
そして、結婚してからの6年間、毎年、日本に行くようになって、日本という国の素晴らしさに惹きつけられたんだ。もちろん、イギリスに生まれた僕にとって、日本は不思議な国だし、観光客としてショッピングしたり夜遊びするなかで知った日本と、実際の生活を通じて知る日本は別物だよ。移り住んで3ヶ月でホームシックになったし、6ヶ月目には生活も音楽活動も上手くいかなくて、日本を憎みさえしたんだ。
でも、そんななかで僕は日本人のナイスな友達と出会ったし、僕の音楽も徐々に知られるようになった。そして、僕の目には、日本のダンス・ミュージック・カルチャーがイギリスよりも真剣であるように映っているんだ。もちろん、ダンス・ミュージックは飲んだり踊ったり、楽しむことが基本にあるけど、イギリスのシーンは良くも悪くも日本よりいい加減なんだよ。その真剣さは日本が世界に誇るべきところなんじゃないかな。

— 今は毎週末、東京を中心に、日本各地でプレイしているマックスのDJは、今回作ってもらったミックスにしてもそうですが、直線的にハウス・ミュージックをつないでいくんじゃなくて、前の流れを切って、別の流れを作ったり、生音のトラックを混ぜてみたり、そういう山と谷の作り方に長年の経験の蓄積を感じます。

Max:そう言ってもらえてうれしいよ。誰かを批判したいわけではないんだけど、長年、DJをやってきたこともあって、一晩中、ハウス・ミュージックを繋いでいくスタイルは自分にとって退屈なことが多いというか。そのスタイルでずっと聴いていられて、なおかつ、DJの個性が表れているプレイというのは、実は本当に難しいものだと思うんだ。
今はコンピューターのボタン一発でピッチを合わせることが出来るし、ミックスも簡単になったのはいいんだけど、DJの多くが挑戦的なプレイに対して臆病になっているような気がするんだよね。
僕が長年DJするなかで学んだことを挙げるとしたら、その場、その瞬間、その音楽のエナジーをつかむということなんだけど、それさえぴったり合っていれば、どんな音楽でもプレイすることが出来るんだよ。ハーヴィーやイジャット・ボーイズのプレイが素晴らしいのもその点にあるように思うね。彼らはエナジーをつかんだうえで、流れやムードを変えることに対して、全くひるむことがないんだ。彼らのそういうスタンスは本当に尊敬に値するし、僕もそうありたいと思っているよ。

— 最後にマックスが考える今後のヴィジョンについて教えてください。

Max:今はフルタイムの音楽家として、それこそ朝9時から夕方5時まで規則正しく制作に向かうようにしているんだ。そして、おかげさまでDJの依頼や世界各国のレーベルからリリース、リミックスのオファーがあるからこそ、僕は音楽制作を続けることが出来ているんだけど、ある時、突然、僕の音楽に誰も興味を抱かなくなる時期が訪れることもあるかもしれない。だって、15年前の僕はこうして日本に住んで音楽を作り続けることが出来るようになってるとは思わなかったし、一番新しい12インチシングル「FEEL IT TO YOUR BODY/ HEARTACHE」の片面をアンドリュー・ウェザオールが、もう片面をデヴィッド・マンキューソがプレイしてくれることになるなんて、それ以上に想像出来なかったことだからね。

— つまり、未来は何が起こるか分からないと。

Max:そう。ただ、この間、演劇の舞台上で芝居に合わせてギターを演奏する機会があったんだけど、例えば、映画のサウンドトラックとか誰かのプロデュースとか、ダンス・ミュージックとは全く関係ない音楽を作ってみたいなと思ったよ。難しいとは思うけど、いつか挑戦してみたいね。
そして、具体的な予定としてはスティーヴ・コーティーと2週間という期間を決めて作ったアルバム、そして、Jan Ken Poっていう名義で作ったアルバムが今年の後半から来年の頭にかけてリリースされる。あとは手がけたリミックスが10作品、それから自分のレーベル、Jansen Jardanも1枚の12インチに1曲のオリジナルとリミックス1曲というスタイルにこだわって今後もリリースしていこうと思ってるから、そちらも楽しみにしていて欲しいね。

Max Essa / Feel It To Your Body – Heartache(Original ’86 Mix)
http://soundcloud.com/max-essa/feel-it-in-your-body-heartache

Max Essaの主宰するレーベル「Jansen Jardan」
http://soundcloud.com/jansen-jardin-tokyo

Max Essa DJスケジュール

9月3日(土)
「About Last Night」千駄ヶ谷 bar bonobo

9月22日(木)
青山 Aoyama Tunnel

10月1日(土)
千駄ヶ谷 bar bonobo

10月13日(木)
西麻布 eleven

10月14日(金)
青山 LOOP

10月28日(金)
ロンドン Book Club

10月29日(土)
ベルゲン(ノルウェー) Klub Kosmo