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人が作った曲をかけてるだけなのに、何かが伝わることが面白くもあり、恐ろしくもある。
— 二見さんのDJ歴は今年で何年になるんですか?
二見:最初に広島で始めたのがたぶん1987年だから、今年で24年になるんじゃないかな。
当時の広島には岩国基地の米兵が遊ぶような、期せずしてクラブと呼べなくもないようなスペース、ディスコより小規模で、選曲の自由度がもう少し高い、そういう箱はあったんだけど、いわゆるクラブは、俺の友達が広島で最初に始めて、当時、大学生だった自分は、DJ用ということじゃなく買ってたレゲエのレコードをかけたのが初めてのDJだね。レゲエは一応踊れるし、格好がつくから。そこに2トーンやラテン、ソウル、ファンクなんかをちょこちょこ混ぜたりしてね。
その辺の音楽は、レアグルーヴってことじゃなく、レコード屋さんに教えてもらったり、音楽雑誌で紹介されていたものを買ってた感じで、リー・ペリーなんかもDJとしてではなく、普通に買ってたんだよ。そういう家にあるレコードのなかからDJの時に使えそうなものをピック・アップして、大きく捉えれば、レアグルーヴ的な考え方なんだけど、あらかじめクラブで踊らせるように作られていない古い音楽で無理矢理踊らせることに興奮してたね。
例えば、アントニオ・カルロス・ジョビンとかね、そういうものもかけてて、まぁ、誰も踊るわけないんだけど(笑)、真っ暗でブラックライトしかないその店で爆音でかけると、まるで違って聞こえるんだよ。だから、今にして思うと、DJカルチャーど真ん中というより、そういう思いっきり端からDJの世界に入っていったんだよね。
— 80年代後期から存在感を増していくヒップホップやアシッド・ハウスはいかがでした?
二見:デ・ラ・ソウルの『3フィート・ハイ・アンド・ライジング』が出た時、すごいびっくりしたんだけど、自分でかけることはなかったし、東京に出てきてハウスと出会って、CAVEのHIROさんとかMIXのHEITAさんのDJがすごい好きで遊びに行ってたんだけど、やっぱり自分がかけることはなかったんだよね。
当時はそういう人たちが一晩を一人で担当してて、そのプレイが壮大だったというか、「これこそ、ザ・DJだな」と思いつつ、自分にとってはすごい遠い世界という気がしてた。
まず、当時の自分はDJだという意識が全くなかったし、プレイしてた場所も、サロン的というか、しゃべって飲んでる、その場のムードを作る感じで、がっつり踊らせるプレイをする必要がなかったんだよね。だから、なんとなくアッパーなものを混ぜて、わーっとなる程度で、あとはシュガー・ベイブをかけたり、ジミー・マクグリフをかけたり、好きなものを気のおもむくままにかけてただけ(笑)。
— 当時、ブラック・ミュージックやレゲエはほとんど認知されていなかったというか、情報源も相当限られていましたよね。
二見:だから、情報ソースはほとんどレコード屋だったよね。あとは…初期のディクショナリーにすごい影響を受けたかな。最初の3〜4号目くらいまで、その中身全てが自分にとっては衝撃的だったよ。ロンドンと東京のクラブ・カルチャーを紹介したのは、あれが最初でしょ。セレクションってページに載ってたレコードは、けっこうチェックしてたしね。
— ディクショナリーですか。
二見:そう。そのショックがまずあって、その後に橋本徹くんがやってたフリーペーパー、サバービアの1号目の衝撃がでかかった。「スキャット・ハミング」っていうような括りで昔のレコードが紹介されてて、音楽リスナーとしての自分の地盤を揺り動かされたというか……そういう風に聴く人もいるんだ、とか、このレコードは何?っていう。
— レア・グルーヴの発想に近いものでもあると思うんですけど、昔のレコードを現行の音楽シーンにはない全く新しいカテゴリーでまとめて紹介したサバービアは確かに大きな衝撃がありましたよね。
そして、個人的な話になりますが、最初に二見さんの存在を知ったのは、1992年にTOKYO FMで小西康陽さんがパーソナリティ、選曲を橋本徹さんが手がけていたラジオ番組『サバービアズ・パーティ』なんですよ。番組中に小西さんが二見さんの名前をよく出していて、「あ、そういう恐ろしくセンスのいいディレクターがいるんだ」と思ってたんです。
二見:ああ、やってたね(笑)。DJは、その頃はたま〜にっていう程度だったから、当時の俺の職業はフリーランスのラジオ・ディレクター。
で、そのサバービアの流れを受けて、フリー・ソウルに突入していくんだけど。昔はメロウ・グルーヴと呼ばれていた音楽、ソウルのなかでもリロイ・ハトソンとかランプ、ジェイムス・メイソン、ボビー・ハンフリーみたいな…レア・グルーヴの大枠には入ってたんだけど、当時のいわゆるレア・グルーヴDJがかけてたサイマンデとかヘッド・ハンターズ、ラスト・ポエッツみたいなものじゃなくて、もっとソウル寄りでマイルドな、踊れる音楽を意識的にかけるようになってて、その辺を形にしたのがフリー・ソウルなんだよね。でも、結局のところ、そのテイストは今もずっとベースになって、続いているんだけど。
— 今挙がったレコードは、ヒップホップのサンプリング・ネタとしてクローズ・アップされて知られるようになりましたよね。
二見:そうだね。ただネタかどうかはあんまり気にせず買ってたかな。とにかく中古レコード屋を廻ってたよ。渋谷警察署の裏にあった昔のマンハッタン・レコード、桜ケ丘のパーフェクト・サークル、芽瑠璃堂、池ノ上のラスト・チャンス、エボニー、祐天寺のワン・ウェイ、あと桜上水にあったワックス・トラックス、もちろん数寄屋橋ハンター(笑)…みんななくなっちゃったけど、そういう店に行っては探して買ってたし、フリー・ソウルってことでいえば、(フリーダム・スイートの)山下(洋)くんが働いていた渋谷のビュー・レコードの亀田さんに教えてもらったもの、ブレイクウォーターとかナイトフライトとか、そういうものがかなり入ってるね。
だから、全てはレコード屋なんだよね。俺自身すぼらだから(笑)、ディクショナリー&サバ―ビア初期以降は特に紙媒体を細かくチェックしなくなったこともあって、レコード屋さんに行って教えてもらったり、聴かせてもらうことがほとんどだったな。
— メディアの情報ではなく、現場の生きた情報が重要だった、と。
二見:まあ現場というか、レコード屋で得た情報(笑)。その後、フリー・ソウルが始まって2、3年経った頃からだんだん勝手になってきて、ムーグものやラーガ・ロックを延々かけたり、スワンプ・ロックをかけたりするようになった。レコード屋で聴いて感動して、その感動をそのまま現場に持っていってるだけだけどね(笑)。自分がDJはじめた途端、お客さんがほとんどいなくなっても全然気にならなかった。
95、6年くらいは三宿のWEBで、(二見氏のユニット、WORLD FAMOUSのパートナー、山崎)ごうくん、チャーベ、あとL.K.O.、(Akichi Recordsオーナー:山崎)真央くん、あと、ムードマンや常盤響くん、まりん(砂原良徳)、福富(幸宏)さん…っていう相手を毎週変えながらのレギュラーも始まってたし、当時、ものすごい本数のDJをやってて、疲れてたのかもしれない(笑)。
— このころは、さすがに自分がDJだという意識はあったわけですよね?
二見:あったけど、やっぱりプロ意識は薄かったんだよね(笑)。広島にいた頃から「ハウスやヒップホップをびっしり上手くかけるのがクラブDJだろう」ってずっと思ってたし、そうじゃないことを自分はやってたというか、DJカルチャーの思いっきり端の方で「王道は別にあるんだから、放っておいて、好きにやらせてくれよ」っていう意識だったんじゃない?。
— 相変わらず旧譜中心だったんですか?。
二見:あのね、そもそも12インチを買うのが嫌いだったんだよ。それがスゴいデカかった(笑)。12インチって、ジャケットがないし、情報もラベルに書いてあるものだけ、ホントに機能だけのアナログ盤じゃん?あれにお金を出すのがずっとイヤだったんだよ(笑)。
— はははは。どんなDJですか!
二見:(笑)中古LPって、リリース当時からとんでもない年数を隔てて、自分のもとにあるわけだから、所有する喜びが大きいのに対して、12インチって買って帰る喜びがあまり感じられなかったんだよね。
あと、昔の新譜中心のレコード屋って、有名クラブDJしか試聴出来なかったから、聴けないレコードにお金を払う感覚も理解出来なかった。90年代半ば以降かな、自由に試聴して買えるようになったのは。ミスター・ボンゴとかで、だんだん買うようになった。
どっちにしろ12インチは、日常的にバンバン使いこなす状況がないと、買えないんじゃないかな。
— ハウスをかけるようになったのはいつ頃なんですか? 恵比寿みるくでまりんさん、ムードマンとやってたパーティで当時の西海岸ハウスをかけてる二見さんのプレイを聴いたことがあるんですけど。
二見:ハウスを意識して、ほんとにそこに照準を絞ったのは、2000年前後じゃないかな。スイッチが入ったのはもう少し前で、ムーディーマンを聴いた時だろうね。それまで全然聴いたことない感じのものだったし、あれは衝撃だったな。
— 個人的には、当時、ムーディーマンがクラブでかかってることは、イメージ出来なかったというか、異形の音楽という印象がありました。
二見:そうだね。逆にいうと、あれは家で延々聴いていられたんだよね。ただのループじゃなく、すごい色んなことをやっていたし、ムーディーマンの後にさらにセオ・パリッシュが出てきて、ニッシー(ドクター西村)が昔いたバロン・レコードに行ったら、壁のレコードが全部セオ・パリッシュだったっていうのが衝撃だったということもありつつ(笑)、あとDJでいったら、ムードマンの衝撃も大きかったね。ハウスがハウスに聞こえないというか、すごい新鮮だった。
— 当時のムードマンも、二見さんいうところのシーンの端っこにいたDJですよね。
二見:端っこも端っこだよ(笑)。でも、だからこそセオリーやら何やら気にせず面白いDJができてたんだと思うけどね。
90年代の後半、WEBでムードマンを月イチで呼んでて、その時、すでに彼はハウスをかけてたんだけど、自分のなかには入ってこなくて、「これはこれで面白いな」っていうくらいの感じ。その後、俺はDJやるのがホントにイヤになって、1年くらいDJをやめてたんだけど、その時期にムードマン達がみるくでやってた『GODFATHER』にやられて、自分のなかでハウスが盛り上がっていったんだよ。
そういう意味で、俺はショックを受けた時のリアクションが異常に素直というか(笑)、自分のなかで「うわ!」って思ったら、向かってしまうところがある。
— ここまでの話を総合すると、二見さんの音楽体験は、ディクショナリー、サバービア、ムードマンの衝撃が大きかったわけですね。
二見:ベースにはメロウなテイストがずっとあるんだけど、そういうことになるよね。・・・その間にはドラムンベースなんかもあったりするんだけど(笑)。
— ドラムンベースもかけてたんですか?
二見:かけてたかけてた(笑)。なんか面白くてね。でも、そういう意味でかけてないジャンルはあまりないっていうくらい色んな変遷があるよ。エレクトロばっかりかけてた時期もちょっとだけあるし、ビッグビートもかけたし(笑)、意外と冷静じゃないというか、その時その時で「うわー」ってなってるし、「こういう音楽が好きです」っていうのが自分のなかには特になくて、反応すれば、全部好きっていう。
— 90年代の音楽の情報量たるや、ものすごいものがあったというか、新しい音楽が一通り入ってきて、それをチェックしつつ、古い音楽もジャンル問わず、幅広く発掘されていきましたし、そういう時代の影響は当然ありますよね。
二見:だから、今思うと、90年代というのは、1900年代の終わりの最後の10年だったわけだから、2000年代に入る前に全ての音楽を発掘・検証するっていう感覚がみんなのなかに無意識的にあったんじゃない? で、2000年代以降っていうのは自己との戦いだよね。
俺個人としては、90年代のあの異様な感じ、あれはあれで避けられなかったと思うけど、それよりも2000年代の音楽の聴き方、外に刺激を求めるより自分のなかで熟成させていく感じの方が好きだね。もちろん、2000年代もイタロ・ディスコをがーっと掘ったり、自分の中での盛り上がりがちょこちょこ起こるんだけど、全体としては、まあ同じかな。「うわー」は減ったね(笑)、明らかに。年を取ったということもあるし。
— 今年、45歳になられたんでしたっけ?
二見:そう。でも、昔より今の方が、DJに関しては、一本一本大事にやってるかな。まあ、ハズす時はハズすんだけど(笑)、全体的には丁寧にやってると思うよ。昔はホント適当だったからね(笑)。
ただ、どこまでいっても、俺がやってることは王道ではないというか、自分自身とかけてる音楽が一体化しているDJは昔も今もいて、それこそがザ・DJだと思うから。
自分は音楽が好きで、その延長としてDJがあるから、延々と同じところで同じことを続けることが出来ない。そこまで愛着の持てる音楽群は、ない。そして、恐ろしいことに、意識しようがしまいが、その人の思想はDJプレイに表れてしまう。
— 時と場所、フロアの状況、そこで何をかけるのか、イコライジングやミックスの仕方、そういうちょっとしたことの積み重ねがその場にいる人に確実に何かを伝えますよね。
二見:そうそう。人が作った曲をかけてるだけなのに、何かが伝わることが面白くもあり、恐ろしくもあり。
だから、俺のDJをいいと思う人がいるとすれば、たぶんその人も音楽に対して俺と近いスタンスを取ってるんだと思う。ただ、本当は、スタンスがどこにあるのかは、じつはどうだって良くて、大事なのは、そのスタンスに忠実かどうかじゃないかな。
例えば、人のDJを聴いてて、自分にとって微妙な曲しかかかってないのに、その場から離れられないことがある。逆に、いい曲ばかりかかるのに、ぴくりとも反応できないこともある。前者は自分がかける曲を自分なりにしっかりとらえて消化しているからで、後者は伝わってほしいイメージが先行しているせいだと思う。
— あと、二見さんの場合、ラジオのディレクターや選曲家として、ダンス・ミュージック以外の音楽もフラットに聴かれていますよね。
二見:そうだね。ラジオや選曲の仕事で使う音楽はほとんど別、使う頭も全く違うんだよね。
そういう仕事は簡単に言ってしまえば、デザインに近くて、求められている落としどころがある。だから、自分の好き勝手やってるだけではデザインにならないし、かといって求められているところに過不足なく落とし込んだだけでは誰にとっても面白くないので、自分のカラーというか味というか、そういうものを盛り込んでようやく人に納得してもらえるってことかな。
その上で、最終的には、ある意味自分を消す作業、誰かがその曲を選んだことを意識させないように仕上げる。
— 「自分が選曲してます」っていう主張が立ってしまうと聴く人にとってうるさく聞こえてしまいますもんね。
二見:そう。普段の選曲の仕事は不特定多数のリスナー、全く音楽に興味がない人も対象だから、音楽そのもの以上に、そこに感じられる意図や主張が立ってしまったら、うるさく感じてしまうんだよ。
— 当然、ラジオでかける曲とクラブでかける曲は別というか、その両方をあわせると膨大な量の音楽を日常的に聴かれているんですよね?
二見:選曲の仕事でしか使わないCD、クラブ・プレイとは全く関係ないCDが山ほどあるから、それはそうだね。
でも、そういう状態をずっと続けられているということは、まあ音楽を聴くことが好きなんだろうね。もちろん、選曲に煮詰まる時もあるんだけど、そういう時は1時間くらい週末のDJの準備をすると、気持ちがリフレッシュされる。普段「うわー、DJやりたい!」って思うことはないんだけど、選曲の仕事で煮詰まった時にはすごいDJをやりたくなるんだよ。だから、自分のなかで選曲の仕事とDJは、セットで大事なバランスになってるとは思う。
ただ、自分がやりたいと思っても、依頼がなくなればゼロになるわけだから、結果的になんとか続いているだけ。続いてる理由があるとすれば、まあ依頼してくる人達の理由はそれぞれだろうけど、自分のなかでは、自分のDJなり選曲なり、何一つ納得出来てないってこと。そういう気持ちがモチベーションになって「さあ次だ! 次こそ!!」みたいな感じで、やる気につながる(笑)。たまに「これはまあうまくいったかな」と思って、その感覚なりスキルを転用したって、次は全く通用しない。…まあ通用しない相手は、主に自分なんだけど(笑)。結局、壊しては作る作業が延々と続いていくし、今後も続いていくだろうね。
二見裕志 DJスケジュール
7月2日(土)
江ノ島 OPPA-LA 『LIVELOVES presents「SUMMER OF LOVES〜ALOHALOHA〜」』
LIVE
LIVELOVES
PEPE CALIFORNIA
DJ
二見裕志
やけのはら
FUCK MASTER FUCK
SOUNDSYSTEM:松本音響
OPEN 23:00
DOOR 2000yen
7月8日(金)
渋谷 LAD MUSICIAN渋谷店 オープニング
7月9日(土)
八王子 SHELTER
7月15日(金)
千駄ヶ谷 BONOBO
7月17日(日)
青山 OATH
7月23日(土)
青山 AOYAMA TUNNEL
7月30日(土)
江ノ島 OPPA-LA
8月6日(土)
下北沢 MORE